歴史編纂欲について

ボードゲームに関して自分はそういうものを感じないのだけど、もっと歴史の長いジャンルについて言えば、通史をまとめようとする人が現れる(そして紛糾する)ことはよくあると思う。

なぜ、歴史編纂の必要性を感じないものと感じるものがあるのか、考える。入手不可能なリソースが増えて(ミュージシャンが死ぬとか、本が絶版になるとか)伝聞での経験が増えることで、ストレスが生まれ、語り直したい欲求みたいなものにつながっているのだとしたら、それが歴史編纂欲というものであり、その時点ではじめて「歴史」が生まれるのではないか。

書かれた「歴史」に対しては、事実誤認や認識の不足に関する突っ込みというのが、ほぼ必ずある。しかしそもそも、「歴史」を書いてみたい、と思うのは、もはや情報が十分アクセシブルではない、という認識と、語り直したい欲求があるからだとしてみよう。「歴史」を書きたい人は、自分がわからないからやってみてるのであって、それを正史としてフィクスする意図は最初はないのかも知れない。

そこを酌み取れば、適当な通史を書いた人への必要以上の叩きにはならないような気がする。「事実と違う」「ソースを示せ」「webにものを書くには一定の責任が発生するんですよ」的な展開は、読んでてつまらない。

(あぁしかし、「こっから以前はよく知らないから天地開闢以前で〜」とかいうのは、語り直し欲すら感じられないので、カチンと来るものなのかも。)

ボドゲにあてはめて言うと、メジャーなものはだいたい全部経験可能な状態にあるから、それをあえて「競り系」「ダイス系」とか分類したり歴史を追ったりする必然性が薄い状態なのかも知れない。それゆえ語り欲がメタな方向に行くというか(俺とかそんな感じだろう)。

それから、ボドゲの場合はシステムだけあってもプレイしなければ論じられない、しかもプレイは一回ごとに展開が違う、というあたりが、「何か言うのは1000本遊んでから」というヒエラルキーの生成を邪魔してるのではないかとも思った。