日記

朝から暑い。

家でしょうもなくネットしてしまうのはソファがないせいだと思った。

ソファとエアコンを入れて、回線を切って、自分の部屋で岩波文庫を読みたい。

回線を切ってしまえば、ネットに関する多くの問題は解決する。しかし使わざるを得ない自分がいるし、使ってしまうと、安きに流れる自分がいる。そもそもの出発点にそういう矛盾というか、弱さがあると思う。

イナゴなんて簡単に比喩できる人は、この弱さとは無縁なんだろうか。

a.

憂鬱ついでに思い出した。昨日夕方、NHKで「電脳コイル」をやっていたのを見た。

子供のやっていることに大人が介入できない(大人の準備した成長システムの中に別の経済が入り込んできていて、排除不能な状態にある)という意味で、現在もこのアニメで描かれるようなものが「学校」ということなんだろうな。

作中出てくる「ダイチ君」という悪ガキを、先生が「こーらーダイチー」と叱るシーンがあるのだが、見ていて非常に寒々しかった。大人とのやりとりは単なる儀礼になってしまっている、というか。(私は田舎の小中学校だったから、そういう風に感じやすいのかも知れないが)

b.

一番上の補足。Twitterみたいなものも、SNSやコミュニケーションの文脈と、「僕にもできた!」という技術的なDIY感を取り除くと、(他人というより)ネットとのつきあいを軽くしたい、という業が残る。

c.

aの補足。

先日、やさしい英語で書かれた「トム・ソーヤの冒険」を読んでいた(まだ途中)。教会の日曜学校のくだりで、聖書の一節を暗唱すると、赤青黄のカードがもらえるシステムというのが出てきた。カードを集めると聖書がもらえる。これはモノというより、名誉によるモチベーションか。

私が小学生低学年のころも、発表をしたり、いいことをするとチケットがもらえるような仕組みを、先生が決めていた。学期末にもっともチケットを集めた人には商品があったと思う。何がもらえたかはよく覚えていない。先生の机に入っていた鉛筆セット、ていどのものだったかも知れない。たぶん、先生がその場で決めていた。商品が欲しい、という理由ではないのに、チケットを集めるということ自体が楽しかったのだと思う。

つまり、私が小学生だったころは、先生から関心を買う経済システムが、それなりに成り立っていた。…あー違うな、無邪気に私が信じていただけなのかな。他の人はもっと斜めに先生に向き合っていたような。

d.

あれだなー、あんだけ学校の授業が無視こかれてる状態で「くぉーらー、ダイチー」とかいってコミュニケーションがとれているふりをするのは、大人としては「いやぁーん、まいっちんぐー」なみの媚態だ。

そしてそれが媚態であることは子供も知っていて、それを引き出すために、「センセイはは結婚がまだで…」…とか…なんとかのいっちょおぼえ的なフレーズを投げてくるし、もっと寂しいことに、大人も自分の言葉の底が割れてるのを知ってるわけですよね。これは一つの告発だと思った。告発したってどうなるものでもないけど。

わたしは無責任な大人だし、自分の子を持つかどうかもわからないから、そういう告発をする側ではないけど、今小学生や中学生の人は、本当に大変なのだと思った。とりあえず、最悪誰も信じなくてもいいから、生き延びてほしいと思う。