嫌なら使うな、に収束する設問は自分にとってあまり意味がない

「最終的にさ、いやなら使わなけりゃいいじゃない」という結論で終了しそうな問題提起に、自分はあまり魅力を感じないというか、考えてもそういう抜け道があるからどうでもいいや、という気分になる。

自分の動機付けを超えた場所で、公共性を、どこまで考えることができるだろうか。考えなければいけない、はどこから来るのか。