日記

日記のていをなさなくなりつつあるので、また用心。食べ物を地味に書くのは、自我を肥大させないいましめになって、よいと思います。

朝:シチューの残り、パン、牛乳。昼:おくら豆腐のカレー。夕:牛肉と野菜の煮込み、ごはん、おから。

朝から積雪。大雪だけど、こっちの人は基本的に車以外の交通手段がないので、たいてい根性で車。歩いてスリップしたりするようなつもり具合ではなくて、安心。

などと暢気に構えていたら、身近に転んで怪我した人が。

昨日の話。「日本人には勤労の義務がある」し「働かないと老後が心配」なわけだけど、働かない人を説得するのに、そういう言葉を持ち出さないといけない人が、コメント欄にたくさん出現するのを見ると、逆に、働くことの意味を見つけるってのは難しいもんだな、と思う。本気で「老後のため」「国民の義務のため」「やりがいのため」って思おうとしてるんだったら、ずいぶんなことだと思う。私もそう思おうとしている一人ではあるけれど。

昔日記に書いたこととつなげてみる。「やらなければ老後がたいへん(だから当然やるだろ)」というのは、「道の脇のドブに落ちたら怪我する、だから気をつけろ(柵をしなくてもわかるだろ)」というのと似てるし、「こっちにコマを置いたら2点、こっちに置いたらマイナス5点(だからどっちに置くべきかわかるだろ)」というのと似てる。どれも、自明なことだ。しかし、自己責任の判断を強いる自明なことの積み重ねでしか人を強制できないのなら、味気ないな、と思う。

自明なことをでかい声で言ってくる人には「そうですねー」と棒読みで返すほかない。

得失点のバランス取りに配慮したあげく、プレイヤーが何をしていいのかわかんなくなってしまうゲームを、いくつか遊んだ経験があり、それで私は、そんな子供っぽいことを考えたりする。

間違った手を打つのが自己責任であるような遊びには、そういうもの特有の緊張感や楽しさがある。

けど、少なくとも、自分が知っている遊びは、「こっちマイナス5点、こっちプラス2点」みたいなものばかりではない。なぜだか「こっちにコマを置くことが楽しくて意味がある」ように思えて、それが駆動力になっていることもある。完全な自己責任と、システムによる完全な誘導の間の幅の広さが、デザインってことだろ、と思うのだ。