その街のこども

NHKでやっていた、震災15年のドラマを見た。全体的によかった(ハグするシーンには息がつまった)けど、リアリティの演出の仕方として、「登場人物設定と近い生い立ちの役者を出す(もちろんこのことを、私は見ながら検索したWikipediaで知ったし、たぶんそれは視聴者の行動として前提されていると思う)」「その日の朝のできごとを、放送に間に合うように撮ってつなぐ(佐藤江梨子が式典に参加して泣いているカットは、役としてなのか、本人としてなのか、はっきりしない)」というのは、やや反則という気もした。とても意欲的だなとは思った。

「おばあちゃんの家に歩いて行って帰ってくる」という行動の根拠が、よくわかんなかった。まぁ確かに主人公視点では「よくわかんない」なのだろうけど。あそこまで説明が足りないと「何考えて行動してるかわかんない、ちょっと変わった女の子」=「それは心に震災の爪痕が」という説明で片付けられてしまいそうで、ちょっと残念。いや、必要以上に説明してしまうと、そんなの嘘だ、ってことになるかも知れないから、あれくらいが丁度いいのかも。

そういう意味で、行きは佐藤江梨子が「歩こう」と引っ張り、帰りは森山未來が「歩こう」と引っ張るのは、作劇として正しいんだろうと思った。

あと、どちらも、直接の身内は死んでない、というのが、逆に切実な話になってるな、と思った。