日記(スゴ本から離れて)

夜から小雨。

「短編小説」を意識して本屋の本棚を眺めると、案外楽しい。

a.

twitterからサルベージ:

@***** 究める如何っていうか、人がそれぞれ自分のタイムラインを持ってるっていうことを無視して共通語を押し付けて来るのが苦手。「占い師CO」はぁCOって何? みたいな

ネット人狼はなんかヤで遊べないんだよオレはモラトリアムなんだよ、とむかーしから言ってるけど、これはドミニオンにも当て嵌まる。ドミニオンがどう、ということではなく、個人のタイムラインをほとんど意識していない、無邪気な受容のされ方に。今年やらなかったら、来年私がやりたいって思ったときに、どこかで遊べますかね。

b.

下に書いたような本を検索していると、高い確率で「スゴ本」「猛毒本」書評に行き当たる。それが悪いとは全く思わないが、その尺度がそのまま受容されて再生産されるのはヤだ(と、上と同じ論法で)。

本の感想をいくつか書いて、自分の書き方に飽きてくると、自分が何故こんなことをしているのか、ばからしくなってくる。書き方というのはつまり自分の感受性なので、そこは書き物とは別に更新されつづける筈なのだが、歳を取るにつれ、それもままならなくなる。

誰でもいくつかは、自分の感受性と対象が出会ったときの驚きから、納得のいく感想(≠書評)が書けるのだと思う。それを続けるには、自分が慣れてしまわないよう、自分を更新するしかないのだが、それがかなわない場合、書き方そのものを「驚き書評」として歌舞伎化してしまうという手もある。「スゴ本」はそういったものだと思っている。むろん書いている方本人には、本人にとっての意味があるが、その驚きを読んでいる私にとっては参考にしかならない。

私はいかにして、私の感想を書き続けられるだろうか。

下のリストを書きながら、「アソートを人にあげるなら、ギフトカードや、菓子箱の中に入っている能書きみたいなものが必要だ」といったことを考えていた。

たとえば、パトリシア・ハイスミスの小説に「poisnous bitter」という、テイスト名から始まる能書きを書いたカードを添えて、人にあげる……みたいなことだ。これはワインの味を「秋の歩道の濡れた落ち葉のような……」と、言葉で表現するのに似ているかもしれない。私も、そういうの、「なんだそりゃ」とおもっていた。

しかし、そういった比喩行為を「別の意味空間への再マップ」だと捉え直すと、一転してクリエイティブなものに見えてくる。

「タロットカードは占いではなく、思考のツールとして使うと面白い。全世界を"イメージ"という切り口で分類したタロットは、カードをシャッフルし展開することで世界観を再構築します。ものごとがうまくいかないときは、たいてい何らかの思い込みがある。カードが示す"意味"を考えることは視野を広げ、新たな発想を生み出すことにもつながります」

http://magazine.carsensor-edge.net/sensor/_7416.html

ハイスミスの小説に振った「poisonous bitter」という言葉の反対側には、別の何かきれいな言葉があるはずだし、その表現の軸や平面に全てを再マップするには、軸の側が、そうとうに豊かでなくては、すぐに弾切れを起こしてしまう。

自分の感受性が変化したかどうか、というのは、感想を書いてみるまでよくわからないことなので、ひとまずは、別の言葉に再マップしたり、架空のアンソロジーを作ることを目標にして、続けてみればいいのではないか。再マップするための別の言葉を用意する、という要請から、本以外のことにも興味が生まれるし。

「驚き書評」よりかは、小さな地図からはじめて、自分の比喩の地図を更新していく楽しみがあるし、そっちのほうが、サステナビリティがあると思うんだ。

小説をチョコレートに喩えたいと思ったら、おいしいチョコレートのことを、知らなければならない。

ここに至って、「楽しい小説を探す」ことと、たとえば「おいしいものを食べる」ことが、一つの豊かさという目的の下に統合されるのだな、と、なんとなく、理解した。