冬の小鳥

今月5本目。

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cast

name cast desc
ジニ キム・セロン --
スッキ パク・ドヨン --
イェシン コ・アソン グエムル
寮母 パク・ミョンシン シークレット・サンシャイン』『母なる証明

感想

少女が父親に捨てられるように養護施設に入れられ、施設の中で父親を待ち続けるが、父親は娘のもとに帰らず、娘は過去を捨てることを選ぶ…という話。展開は素っ気ない。

客席には年配の方が多かったが、鼻をすするような音が聞こえたりはしなかった。私も泣かなかった。そういう話ではない。もしそういう映画なら、自分を捨てた父の思い出を「これでもか」と伏線にして盛り込む筈。そういう部分はいっさい描写されず、ただ、主人公のジニ(キム・セロン)の演技で見せる。

養護施設の中に、脚が悪くてもらい手のない20代なかばも過ぎてそうな女の子(コ・アソン=『グエムル』で攫われた子だ……)も、暮らしている。この「姉さん」の失意と絶望をたどるように、ジニも成長していく。

「姉さん」は「思い人来る」という花札占いに勇気づけられるように、出入りの業者の青年にラブレターを渡すが、色よい返事が貰えず失恋する。その後、自殺未遂を起こしてしまう。

なぜそれくらいで自殺なんて。失恋の痛手だけでなく、たぶん…

「こんなところにいても、救いなんて何もない。占いなんて嘘に決まってるだろ」

…ということに、いい加減、気づいてしまったからなのだ。

同時に、舞台が「キリスト教の養護施設」であることが、「父なる神は子を捨てたのですか」という問いかけとなって、基底音として鳴っていて、そこに、「瀕死の小鳥を助ける」というエピソードが乗っかる。

幾重にも「捨てられた自分に救いなんてあるのか」という問いを織り込んで、でもあくまで、描写は軽いタッチで、子供が感じる「恐怖」「笑い」「孤立」がないまぜになった日常を、淡々と描いていく。うまいなぁ…と感心することしきり。

おおかたの想像通り、助けた小鳥は死に、待っている父親は帰らない。そのあたりがはっきりし出した終盤の、ジニの行動と、映像に映るものは、たいしたことが起こっていないようでいて、ちょっとした衝撃の連続に見える。

くだんの「姉さん」は、自殺未遂を起こした後、皆の前で罪を告白する体で報告させられるのだが、なにせ、聞いているのは小学校低学年くらいの子供が大半だから、「姉さん」が人前で喋る姿に、クスクス……と笑いだしてしまう。

そしてなぜか、それにつられて、自殺しようとした「姉さん」も、ぷっと吹き出して、一緒になって笑いはじめてしまうのだ。

その後、「姉さん」は、「家政婦みたいにこき使われるなんて嫌だ」、と当初拒んでいた、韓国の家庭への養子縁組を受け入れ、施設を去る。

(この話の中では、施設の子の「あがり」は、お金持ちの外国人の家庭に貰われていくこと)

「姉さん」の中で、一体何が起きたのか?

「望む救いがないのなら、いちど死んで、そして、新しい自分になって、笑うしかないのだ」……ということを、理解したのではないか。

そう理解すると、最後にジニが、自分なりの「死」を執行した後、皆と同じ「施設の女の子」の笑顔になって記念写真におさまるシーンが、なんともいえない冷たさを伴って目に焼き付く。

直後、ジニを見送るシーンが入り、ジニはフランスの家庭に養子として貰われていくのだが、集合写真の笑顔から一変して、ちっとも、幸せそうではない。他の子供たちと一緒に十把一絡げに貰われていく様は、人買いに買われていくようでもある。

事態は、最初に彼女が父を求めていたような形で解決したのではなかった。ただ、ジニの中で何かが死んで、そして変わった。

ジニの「死」のシーンと、集合写真のシーンの間に、「あるもの」の短いショットが挟まれるのだが、これにははからずも戦慄した。表面的には何も起きていないはずなのに、こんなわかりやすい形で「死」を表現するなんて……!

もう自分に未来なんてないのかなぁ…と不安を感じている人におすすめ。

映画の中で大きな救いがあるわけではないが、この映画が、監督のウニ・ルコントの自伝的内容であり、ジニ(のような女の子)が成長してこの映画を作ったという事実が、映画の冷え冷えとした感じに、一筋の希望として、射している。

今月のオタ女子*1向け映画だと思います。「施設」=「今自分がいる場所(会社etc)」だと思って観ると、それは自分にも誰にも、現在進行形で起きていることだと思うから……

(あぁ、こんなこと書くと、おれが何を考えながら観たかわかって嫌われるな)

人のことはさておき、自分はどうか? たぶん「死んだのに笑っていない」か「死に方が足りない」か、どちらかだろう。

表面的には81点。深読みすれば88点。

*1:趣味嗜好ではなく、自意識の区別としてオタを自称する女子