日記(ぼんやり会ログ)

木曜は夕方からぼんやり会。

  • 川のあっちがわで住まいがなくなり、こっちがわで庭木が一本倒れたくらいの被害、という二つの結果の間には、それを説明する合理的な理由が何もない。
  • そのことに私は(無事だった方の私は)罪悪感を感じる。なぜ私なのか、ではなく、なぜ私ではないのか、と思う。でもそれをつきつめても答えとかない。
  • これはあらゆることに言える。全てが圧倒的に不平等だ。ゼロベースで考えるなら、たとえば私の年老いた父親と私とではこれからの余命とできることに関して、不平等だと言うことができる。
  • 理由がつけられるものに関しては、人は理由をつけたがる。自己責任とか努力の結果とかリスクは最大限避けろとか。
  • しかし起きたことにそれを言っても。根本的には、老いた父が私の残り時間をうらやんで不平等だと言うのと、年収2000万の人をうらやんで私が不平等と言うのとは、いまそうであるということを認めざるをえない限りにおいては、何も変わりがない。
  • 人はときどき「代わってあげたい」と言う。しかしそう願った結果、父と私の意識が入れ替わったとしても、生まれるのは別の「代わってあげたい」でしかないし、不平等の総量は変わらない。
  • 私ですら何かの拍子に「うらやましい」と言われることがある。言われた方は「えぇそうですね、すいません」と言うほかない。誰が何をどうやったってどこかの誰かにとっては「うらやましい」のだし、「うらやましい」を表明して気が晴れるのなら言うなり「はてな匿名ダイアリー」に書くなり好きにするとよい。そう思う人がいる、ということを残す意味は確かにある。
  • 自分のやるべきこと、やりたいことを自分のやりかたでやるだけっス。3月以降はっきりしてるのはそのことで、そのことを共有できている人と私は、たぶん積極的な隣人だ。共有できていない人とは(あまり話したくないが)消極的な隣人だ。

…といったことを話さず、もにゃもにゃお茶など飲んだ。