「みんな好きずきやればいいじゃない」というのにも責任はあるよ

書いてたものを放流。


「あなたはいつか趣味の世界からいなくなる、だから趣味の世界を守るために後進の育成をしましょう」という趣旨のツイートに、半分納得、半分疑問符。

Pro/ConのConから書く。<趣味の世界>というのは、<クラスタ>みたいなもので、たまたま線を引いて切り取ったらそこにあった、というようなものだろう。そして、それがあることにしたい人が、その世界を所与のものとして、なくなってはいけないものとして、語りたがるのだろう。自分はことさらに「ある」と思い込もうとはしていないので、守ろう、と言われても「何を?」というのが正直な感覚。「後進の育成って? これ部活か何かだっけ?」という感じ。

でも、そういった違和感から単純に「みんな思い思いに好きなことやってれば、それでいいのでは?」という見解を引き出すことには、同意しない。

正確に言えば、「みんな好きずき」が「好きへの無関心」を表すことになるのであれば、同意しない。冒頭のツイートへの賛意を残して、私なりに言い直すとこうなる。「あなたはいつか趣味の世界からいなくなる、だからあなたが何が好きで、何故それが好きなのかを見ておきたい」

理屈はこうだ。10年後には、ボドゲと言われていた市場は縮小し、見る影もなくなる……、と仮定する。マニアもいつか独身ボドゲ魔窟生活を放棄し結婚する。ある日夫婦子連れで一緒に出かけたドンキホーテで、昔遊んでいた「カタンの開拓者」を見つける。「あーっ、こんなところにボードゲームあるよー、今まだやってる人いるのかなー」……しかし、10年待たなくても、同じ光景は、今、トイザらスで野球盤や人生ゲームを目にしたふつうのおとうさんのリアクションとして見ることができるだろう。ここで質問。10年後のあなたとトイザらスのおとうさんは、同じようなものだろうか? 同じだとしたら、トイザらスのおとうさんが昔遊んでいた人生ゲームと、今あなたが遊んでいるものは同じようなもの? さすがに今、そう思っては、遊んでないんじゃないかね。

どれだけ「みんな好きずき」であるといっても、周りに「なんだって楽しければ同じじゃん、人生ゲームとかさ」と言われれば、「いやいや、それは違うんだよ〜」と言えるくらいの偏った「好き」は持っているものなんじゃないのかね。

<この趣味の世界>があるとか、それを守るとか、そういうことはどうでもいいけど、わたしやあなたが今卓を囲んでいることには、何か意味があることにしたい。外の世界ががどうあれ、あなたも私も、この遊びを選んでここにいる。それは、何故だろう? 何かの選択を繰り返した末に、ここにいるのではないのだろうか? その選択をしてきた、私たちの偏りとは何だろう? どうしてボードゲームプレイヤーにはコンピュータ触ってる人が多いのだろう? SFやミステリの話を振れば誰かに当たるのは、何故だろう?

私が「この趣味そのものにはあんまり興味なくなってきた」と言いながら、集まりに顔を出したり、自分で集まりを開いたりしてみるのは、そういう腹づもりだ。要するに、人に興味がある、ということだが、それは「ボドゲでコミュニケーション」みたいな意味ではなく、その人の持ってる歪みに興味がある、というわけなのだ。