マイアミ沖殺人事件,D.ホイートリー(著)/土屋政雄(訳),中公文庫,ISBN:4122013682

チンタラ読んでたのをやっと読了。時間がないわけではないのだが…

本邦初の、調書、供述書、写真、証拠品といった、「捜査資料」だけによるミステリ。
文庫になっているとあまり驚かない。写真や証拠品がおどろおどろしいが、それは単なる<文体>の違いでしかない、ということが、文庫だとはっきりわかってしまった。ハードカバー版は、完全に資料が分断されていたりするのだろうか?*1 箱に入ったばらばらの紙束として売ってあったらそれはすごいと思う(だれも買わんか)が、それだって、時系列的に並べてしまうまでの興奮だろう。

このあいだ読んだ『46番目の密室』で、有栖川有栖は、密室トリックの大作家に「ミステリはこのような形に進むものではなかった」というような意味のことを言わせていた。

たぶん百万言尽くされているのだろうが、自分なりに書く。ぼくはミステリに幻滅しているわけでも何でもない*2が、本書を読んで、窮屈な自己規定のようなものを、かなりダイレクトに感じた。

「脳のスイッチを繋ぎ直し、混乱が整理されていくプロセスを愉しむことこそがミステリなのだ」という、自己規定だ。

その規定に則れば、この「整理」のプロセスが長くて巧妙であればあるだけ、愉しみの総量は多く、よいミステリだということになる。

しかし、もっと他の脳の状態を作ることができるのではないか。つなぎ換えと収束、という気持ちよさ以外に、何かあるのではないか。そういうことを、『46番目』の密室の大作家(名前忘れました)は言っているように思った。

何の話だ。
本書の内容は、まっとうな本格推理の中編になっていて、楽しめた。

捜査資料だけで条件の絞り込みができていくところに感心した。まぁこれだけ全員にアリバイがあれば残る結論は****ということになる、の、だ、が…

ちゃんと写真は見るようにしましょう。やっぱそこか! というところに証拠が隠されていて悔しい思いをしました。

*1:今検索したら、本のページにマッチや髪の毛などの資料が綴じ込んであるようなものだった。演出以上のものではないらしい

*2:偉そうな言い方だが、ぼくはいい歳になってこういう本を読みはじめたので、いくらか傑作に出会えたら、はやいこと自分でこの趣味に飽きないかと思っている、というのが正直な気持ち