斬る折る祈る

折り鶴は83万羽集まったらしい

昨日ニュースの映像で見たが、原爆の悲惨さを子供達に伝えようと、原爆詩を、子供達の前で朗読している団体があった。もちろん子供達は「せんそうはいけないとおもいました」という感想しか言わないし言えないことになっていて、とてもグロテスクだと思った。ねぇきみ、じゃぁなんで、「死ぬのは嫌」=「戦争はいけない」になるのさ。いやぼくは小学生くらいの子供にマイクを向けて、何か適当なことを子供が言わされている映像というのはほとんど全てグロテスクに見えるのですが。

死の恐怖によって戦争への恐怖を植え付けられた人は、確かに戦争には反対する大人になるのかも知れないが、どこかの国で建物が爆撃されて、人の営みそのものがとり返しがつかないことになっていくのを見て、「でも人は死んでないよね」などと言うのではないのだろうか。こわい詩でもかわいそう詩でもそれ自体は結構だけど、お願いだから、そのことを考えてやってほしいと思った。子供達に思考のための梯子をあげてください。

ところでぼくは「仕事覚えるためにがんばります」とか言う人と話をするのが苦手で、なぜなら仕事というのは頑張らなくていいように行動を組織化したり案を出したりしていく人の営みだと思っているからで、それを個人の能力とか「やる気」に還元しそうな人を見るたび、こんな奴と仕事したらおれ頑張らないといけなくなるなー、かなわんなー、と思うのである。

だから今この戯れ言を読んでいる人で「仕事覚えた!」とか「頑張る!」とか日々言ってる人は、ぼくの書いてることと感性が合わない可能性があるし、この上でもこの下でもそういうタイプの人を馬鹿にしているので、不愉快だったらすいませんと謝っておきます。

湾岸戦争が始まったとき、ぼくは塾講師のバイトをしていて、学校の英語の授業で、毎日授業の最初に「イマジン」を歌うという、そういう先生がいる学校があるのを知った。

その先生がもし、アニメやゲームの演出家だったら、こんなことを言うかもしれない。「祈ってるとですね、一人一人から、ピカーンって、輝く光が飛んでいくわけですよ。それがみんなやってるから、地球のあちこちから。元気玉とかファイナルファンタジーみたいな感じ。それでですね、その光に当たった兵隊がですね、お、今まで俺達は何をしてたんだって、思い直すんですよ。目とか三角になってたのが、素に戻ったりして…」

今後そういうベタな演出をする人は懲役刑とかにしたほうがいいんじゃないかなーと、ぼくは思う。

「仕事覚えるためにがんばります」という人と「戦争終わるまでイマジン歌いましょう」という先生は、ぼくのなかで同じ人によって演じられていて、そういうことを想起している自分もけっこう醜いと思うが…

「イマジン」よりむしろ「パワートゥーザピープル」なのではないかと、塾講師のぼくが思ったというのは、もちろん嘘で、それは今考えました。

別に折る人が悪いとは思ってなくて、ぼくは、燃えた灰すべてをガラスケースに閉じこめて、「わたしたちが思いの結晶と思いたがっているものなど一瞬で燃えるしそれは思いの結晶ですらないかもしれない、でも何か思って鶴を折る人もいて、それは貴重だ」と書いて、その隣りに、その後の鶴を並べたほうがいいと思うのですが、やっぱり灰は掃除するんでしょうか。