そんなわけで
先日書いた「川に飛び込むのに眉をしかめるべき」と書いたことの、前半に関する補足です。
ぼくはゲーム脳とか言ってる人、受動喫煙とか言ってる人、大腸菌とか言ってる人、とにかくそうやって、最初から正しい(とされているもの)を論拠に、議論ないまま人の自由を封じるようなやり方を好かないのですが、ではオレは倫理基準として何をそこに据えたいのだろうと自問すると、たとえばテレビゲームの場合だと、
「ゲームせんと勉強せんか(バキッ)」
という、父の鉄槌のようなものなのかも知れない、ということに思い至ります。ファミっ子にとっての第三者の審級とは親父にカセットを踏まれることであります。
はたしてそんなものが必要なのか。
少なくともぼくは求めているわけで、飛び込みの死者が出る前だって、テレビで是非とも、ピーコかテリー伊東かYOUか、まぁ誰だっていいんだけどそういう人に「みっともないのよ。ばかじゃないの?」と言って欲しかったのだと思う。
それが一方的で乱暴で正しくないとしても。なぜならその正しくなさはぼくたちには認識できるから。
書いているうちに仮想敵からの声が聞こえてきた…なになに…
「そんないちいち喧嘩しなくても、やってる人がセルフコントロールできれば、問題ないんじゃないの?」
せ、セルフコントロールですか…あのですね…やるのが悪、やらないのが善とかそういうことじゃなくてね…なんというかですね…(脱力)…
きっとこの脱力と戦うのが哲学なのね…いや、ぼくにとっての…。