要領よく語ることについて

http://d.hatena.ne.jp/yukatti/20040123#p1
http://d.hatena.ne.jp/janvier/20040123#p1

私が適当な書き方しかできないので、ちょっと言及されている範囲が広くなってしまって、全部にリプライするのはいつもながら難しいので、とりあえず思いついたところから。

きちんとしたブックガイドを読んではどうか、読書会に参加してはどうか、とお気遣いいただいて大変恐縮なのですが、<私>が「読みたい本がわからない」と言ってるのではないです(ついでながら、yukattiさんの案内は毎回非常にためになります)。

「文学」がとっかかりがない、ことが問題といっているのでもない。読めば、何であっても、何かしら得るものはあるとは思います。それは確かだと思う。

しかしその経験が、個人の経験に終始するのが不安なのです。

言葉を変えて言うと「文学」のヘビーユーザーが、「文学」のライトユーザーに伝える言葉は、なぜ整理されていないのか。「私の読書歴」のような、個人の経験と歴史を語るものは、線的で整理されていないように、私には感じられる。

id:yukattiさんやid:janvierさんの私的な文学史は、本人にはたいへん意味のあるものだろうし、ぼくもそれを見て、人となりがなんとなくわかってとても面白いと思う(いや、ほんと)。

でも、それが、一般的に、本を読まない人に本を薦める材料になるかというと、そうではないでしょう。

たとえば他の娯楽と同列に、流行りで本を読んで、あー面白かった(つまらなかった)、という人がいる。そういう人に、あなたが今読んだ「文学」というのはこういうテーマを扱っていて、その問題意識なら今こういうのが面白いんですよ、みたいなことを、誰が言うのか。言ってはいけないのか(自分から聞きたい人はほっといても聞きに行くと思うよ)。それが知りたい。

こう、尋ねると、「押しつけはよくない」「感じ方は人それぞれだから…」「所詮娯楽だから…」とか言う人がいるわけです。そんなの当たり前だし、誰も押しつけろとは言ってない。

「人それぞれ」ではあるけれど、でも、それぞれ孤立してる人が、同じ対象を前に、何か似た感興を呼び起こされたり、場合によって、同じように深く心を打たれたりしてるという事実がある。これは何なのか。対象を深く愛する者として、傍らに座った新しい人に語る言葉はないのか。「人それぞれ」だと黙っていたら、その人は席を立ってまたどこかに行ってしまうかも知れない。

「あー、ちょっと、ちょっと待って」と私は思わず声に出す。

「なに? もっと面白いことがあるの?」立ち上がりかけていたところを呼び止められたのをいぶかしんで、片方の眉を上げてその人が訊ねる。

「…えっとね…」与えられた時間はわずかしかない。

私の選択肢:

  • 1)「いや、なんでもない、君には君の好きなものがあるよね」と言う
  • 2)強引に「ちょっとこっち来て」と手を引いて、自分のお薦めの場所に連れて行く
  • 3)「これは××というところが○○だと思うんだけど君はどう思った? よかったら▼▼というのもあるからそういうのが気に入ったら続けて見に行ってもいいんじゃないかな」と語る


でまぁ、1は進歩なし、2はウザすぎ、よって3だと思うんです。今見ているものに一片でも真理があると自分が思ったら、一言声をかけてみるくらい、いいじゃないかと。

そこではじめて、自分の使っている「語る言葉」に気がつき、他の人はどう思っているのだろう、と気になり始める。もちろん、個人の経験や歴史は人それぞれでかまわないけれど、対象を語る言葉は、同じような形のものを使ってもいいんじゃないのか。

そのようにして評論が生まれたのだと思います。「要領よく」というのは、この「同じ形のものを使う」という意味であって、要約を聞いて楽して内容を汲み取ろうということではないです。