悪い意味じゃなくて

(加筆修正:040228)

orkutは昔の関心空間みたいな、クラシファイするげな雰囲気が漂ってると思った。日本人にとっては英語が壁だろうし(勿論自分も)、誘うとなってもネット友達が少なげな人を誘うのも気が引けて遠慮したりするのだけど、そういうのが参加者を微妙に選別してるというか。選別の仕方として、「入りづらい」ではなく「紹介しづらい」というのは珍しい。

いまは単純に、ポチポチと押しているだけで、「有名な人」「日記で知ってる人」に行き着く感覚が楽しい。

まことにセコい感覚ながら自分にとっては事実なので、以前書いたことをもう一回書くけど、自分の中には有名人ヒエラルキーみたいなものがあって、それがいったん解体されて、各パーソナリティがノードのみで結ばれている様子が気持ちいいのだと思う。

だから自分は、orkutは、友達を見つけるとか、コミュニティを作って活動するとかいう、サービスの本来的な意味とは違うような受け入れ方をしていると思う。(英語だし…)

昔の関心空間でいうと「わー結城浩さんからコメントもらっちゃったよ!」的なたのしさで見ているというか…わかりづらいでしょうか…。

そんな感じで今orkutは僕のなかでは体感偏差値65くらいで、背伸びして足が着かないのでアップアップしているのだが、それとは別に、ユーザー数が増えるとどうなるのか、という興味を持っている。裾野が広がってグダグダになっていくのだろうか。

いや、グダグダになるというのは言い方が間違っているかもしれない。客観的に見てDQN指数が高くなっていく、ということは、それほど問題ではない。数が増えたことで興味を無くしてしまうという自分自身の問題なように、思う。

全体が見えなくなってしまうと、一気にどうでもよくなってしまう傾向がぼくにはある。たとえば今ぼくは、関心空間の最新キーワードをチェックしよう、などという気に全くならないのだけど、これは、(動作が重いというのがまずあるが…)人もキーワードも多すぎて、自分がそれを「知っている」「知らない」ということが、システム内でどれほどの価値があるか測れないからだ。

常に自分のランク付けが気になる。この自分のセコさに気が付いたときにぼくは「関心空間」でお仲間をさがすようなキーワードを立てるのをやめて、自分の関心があることのメモ帳として使おうと思ったのだった。でもそういう目的で利用すると、「公共性のあるキーワードを立てなさいよねー*1」みたいに学級委員タイプの人がいろいろ言うと思ったのでkanshin.jpを借りた。でもこれはほとんど使ってない。

全体がなんとなく把握できている(全部知っているという意味ではなく、だいたいの果てが見えている)状態では、自分をどこに位置づけたらいいかがわかるのだけど、果てが見えなくなると、自分の立ち位置が判らなくなって興味を失う。

もちろん、立ち位置なんて気にせず自分で立ってればいいのだが、それができない、ぼくみたいなセコい根無し草体質の人も、けっこういると思っている。そういう人を取り込むと規模がでかくなる法則があるのではないか。日本だけのことかも知れないけど。

*1:いっとくけどこれは?Dへの皮肉ではない。関心空間ではキーワードは個人が立てるものなので「オレのほうがもっと語れるのに!」みたいな微妙な感情のやりとりがあるのだ