木曜日

目が覚めると見当識喪失ってやつで自分がどこにいるのかわかんなかった。弟と二人で「旅館ごっこ」をやって二階の廊下に布団を敷いて寝ているのかと思った。でもそうじゃなかった。ちょっと横を見ると昨日の親切な感じのひとが窓からこちらを伺っていた。はらたつ。見んなバカ。

こういうことを書くとあたしが見当識喪失なんて難しい言葉を知っているはずがないから、この記述は虚構だと思うかも知れない。でもあたしの脳内にはちゃんと同じような概念があって、それは言葉にするとそう呼ぶものなのだ。だからそれでいいはず(だと、思う)。多くの人はあたしが文の末尾に「w」だとか「vv」だとかつけていれば安心するのかも知れない。でもそうではない。断じて。硬いベッドの上で寝返りを打って窓に背中を向ける。

そういえばあたしには弟なんていなかった。父親も母親もこれからいなくなるかも知れない。父親が父親じゃなくなるってどういうことだろう? 夕食のとき清原のおとこ気についていろいろ言わなくなるってことだろうか? 想像ができない。

壁のパネルから天井につながる模様を見ていたらドアが開いて、さっき見ていた人が入ってきた。

「大丈夫かな?」と、機械的にかれは言いながら、あたためた牛乳とレーズンパンをテーブルの上に置いた。この人なんなのだろう。これはきっと正規の朝食ではない。この人が勝手にやっていることなのだ。牛乳を飲ませればあたしが何か言うと思っているのだろうか。あとレーズンパン。馬鹿じゃないの。ドラマ見過ぎだと思う。言い過ぎた。人がよすぎる。うんそうだ。

こういうことがあった後、大人の人が会いに来るという概念をあたしはしっかりと持っていてそれはセッケンというのだけれど、ここでセッケンをセッケンとそらとぼけて片仮名で書くようなヘマをあたしはしない。ごわごわした布団を押しのけて立ち上がると席について、ありがとうございますと言った。

「気分はどう?」またその人が聞いた。ひょっとしてこの人がその会いに来る大人の人なのだろうか? 状況が特殊だからそういうことが許されているとか? あるいはそれとは逆の立場の人かも。だったら、あたしにはしかるべき筋に連絡する権利がある。気分はどうだなんて、誘導尋問に違いない。そんなの、思い出したくないに決まってるじゃないか。

でもいろいろ思い出した。本当は今一番心配なのは自宅の本棚とブックマークだ。あそこには見られたいものがたくさんはいっている。見られたいもの、だ。本当に見られたくなかったらブックマークなんてしない。でもあまり頭のいいふりをするともっと特殊なことになってしまうような気がするから、あれは見られたくないもので、あたしはあれが好きなのだと思うことにする。もんだいはそれが適切に見られるかどうかということだ。あたしがある嗜好を持っている、であるとか、そういうことは、ほんとうにどうでもいい。ほんとうに。

今日あたしの部屋の中に入っていろいろ見る人は、あたしたちの言葉を、ちゃんと見てほしい。あたしたちがどんな言葉を使っているか。もしくは使わされているか。

パンの中からレーズンを先にほじって食べていると、男の人はクスクスと笑った。こういうのが好きらしい。あたしがリラックスしていると判断したのか、かれは茶色い鞄から小さなノートを取りだして、テーブルの上に置いた。なんてこと。ああその続きは言わないでお願いだから。

「ここにノート置いておくから、なんか思ったことがあったら書いてみて」