見てたら

おとついかそのまえ僕は日記の記述に「本人の人、見てたらごめんなさい」ということを書いたが、これはおかしいのであって、本人が見ていなかったらどうでもいいということである。僕が書いたものと、書いた僕には、連続性はなくって、たとえば数ヶ月前「こんど真面目にプログラミングやろうかと思ってるんですよねー」と書いてあって、今の自分がそれを実行していなかった、とする。それはその時その自分がそう思っただけなのであって、もちろんそれを遂行しないことについて、僕はいい加減な人間であるという評価を受けるし、もっと他人に影響力のある約束や宣言などの場合申し訳ないという気持ちをもつことはあるのだけども、基本的に書いたことは書いたことであり書いた瞬間僕との連続性は失われてしまうのである。だから「見てたら、ごめんなさい」という代わりに、その言葉をそこに置いた瞬間、無条件に「ごめんなさい」と書いたほうが、いいのかもしれない。

しかしながら「なら書くなよそんなもん」という気もするのであって、これは会話で一言多い人が「…あ、すいませんすいません」と後になって自分の発言を撤回するようで見苦しい。

自分と書いたものが不連続だ、といった後で、不連続なものが責任を発生させる瞬間、簡単に言うと人に影響を与え始める瞬間に、あたらしく、今の自分に結びつくものなのだ、という認識が自分に足りないと思った。

と、自分ばかり責めてもつまらないので逆の方向から考える、すべての書かれたものに責任を要求すること、たとえば、書き残したすべてのテキストに対して、修正と挿入をins/delタグで要求するガチさ、というのは、どこまでアリなのだろうか。もちろんそういうことが要求されている時点で、ほとんどすべてのテキストには人に影響を与えうる責任が発生していると思うけれども。

しかしながら、それをつきつめて考えてしまうと「どんなものだって、見られる可能性も人に影響を与える可能性もあるわけですから、文字を置いた瞬間に責任が発生するんですよ」といった方向に行ってしまい、これはもうほんとうに、インターネットはセメントでやりあう人しか使ってはいけない場所のようであり、実際そう思ってる人もいるとは思うのだけれども、それは僕にとってはいささか不自然だ。なんでもかんでもつまみを極大極小にすりゃいいってものじゃない。…と今思いついたが、こういう、インターネット、というかワールドワイドウェッブで、果てが見えないゆえに極大極小にしてしまうメンタリティとSF者、っていうのかな、とにかくそういう思考実験好きっこ、であるということはかなり親和性が高いと思うがそれはいつか考えよう。

…ばたばた書いてたら調子が出てきたような気がします。