差別には現場が存在する

囁き声で示唆をうけたのでメモ。

差別というのは、還元すると、人の態度と、人がその態度をとるために判断した情報、および人の態度によって不利益を被る被害者、という要素から成り立っているってことでいいのかな。

「差別」という何かの実体が生成されつつあるから、それをくいとめるためにアクションをおこさなければいけない、という発想から、差別の行われる現場まで、十分に視線がとどくのだろうか。

もちろん、くい止めることは、ひとつの努力だとは思うし、くい止められる差別もあるとは思うけども、「今ここでくいとめなければ差別が見えなくなってしまう」なーんて言われると腰砕けかもしれないなぁ。水際でくい止められなかったときのこと考えてねぇの? という。

たとえば、友達に差別的な話題を振られたときに、友達に嫌われずに、冷静に、その情報源をただす個人のコミュニケーション能力。ほんとうにやめさせようと思ったら、最終的には、そういう教育的な話になっていくんじゃないのか。

ゲーム脳の話でいちばん感情を動かされたのは、その内容が非科学的だということで、「これにて一件落着」にしてた人がそうとうな数いたこと。そういう話じゃないよ。それを受容する枠組みの話なんだ。これを真に受ける「バカ」*1とどう対話するんだって話なんだ。

*1:というふうに外部化するから話がシンプルになるのか