外挿の能力は一部の人の特殊能力かもしれない
(まとまってません)
http://d.hatena.ne.jp/./hatenadiary/20041215#c のやりとりから(一部消えてるけど)
web日記や掲示板なんかで
- 「自分と同じことをあと100人やったらどうなるか考えてみろ」
- 「この記述をだれが見ているか考えてみろ」
っていうのは、基本的な<作法>だとは思うし、そういう作法に不慣れな人が「はてなダイアリー日記」にコメントで意見したり「同感です!」とか内容に乏しいコメントをするんだと思う。自分がそういうのに気持ち悪さを感じるのは事実。もうね、「同感です!」はないと思いますよ。とんとん相撲じゃないんだから。
ただこれは<作法>ではあるけど<原理>ではないと思う。
「自動車が発明された時代にSF作家がいたとしたら、様々な人が自動車についてバラ色の未来を想像する中で、SF作家だけが<交通渋滞>を予測できただろう」
という話を、どこかのSF入門で読んだことがある…これは誰がどこに書いてたんだっけ…とにかく、SFというジャンルには、エクストラポレーション(外挿)という独特の思考がある、ということを言っている。<作法>というのはこの外挿という能力に近いところにあって、それはあるタイプの人に備わった(誇るべき)思考の能力だけど、その能力を使える人が思ってるほど、みんながこの能力を使えるわけではない。
個人的には、そういう発想をする人が増えたら、住みやすい世の中になると思う。自分にとっては。どんな田舎でも、エスカレーターではみな片側に並ぶだろうし、待ち行列では必然的に皆フォーク並びするようになるんじゃないだろうか。人が少なくても、「もしここを急いでいる人が通ったら、どういうふうにしておくのが一番よいか」と想像して、自分にできる最適な体勢を、とるということだから。
でも、なかなかそうはならない。どうやってその<作法>のわかんない人と話せばいいのかっていうこと自体が、ひとつの課題だと思う。これを、何かの「想像力の欠如」と言ってしまうと喧嘩になりそうだ。ましてや「マナー」でもないだろう。
実際のところ、「今わたしと同じことをしている100人の人」は実在しない空想の産物なのであり、たとえば、はてなダイアリー日記にコメント直撃をしても、その人だけがやっている限りは、害がない。田舎のデパートのエスカレータでは、右(えぇと、関東が右ですか?)を開けなくても、とりあえず困らないし、銀行のキャッシュディスペンサーの前でフォーク並びをしなくても、時間を選べばそんなにイライラすることはない。
これは結局、不確かな状態、最悪の事態を想像して、それに備えて行動を最適化することだといえるが、不確かなものを受け入れたくない人に、受け入れろ、というのは難しいかも知れない。
そういう人と喧嘩になるとどうなるか…。日記のやりとりでちょっと火がつくと、そういう人は「ネットは顔が見えない怖いところですね〜^^;」てな具合に、不確かなものを遮断してしまう。火がつきかけたときこそ、そういう不確かさへの対処方法を学習するチャンスだと、僕などは思ったりするわけだが。
いずれにしても義務じゃないから、人に課すことはできない。できないけど、通じてないのが、なんかはらたつ。そういうところが、難しいんだろうと思う。
これは
日本を代表する運ゲー「人生ゲーム」に対して、
- 「人生なんてこんなもんさハッハッハ」と笑って遊べる人と、
- 「あのさ、この遊びに人間の意志決定する部分はあんの?」と言いたくなる人
に、分かれることにも似てるだろうか(強引)。後者がどんだけ言っても前者は「なにもたかがゲームにそこまでやんなくていいじゃん」っていう一言で全部斬るので通じなげなのであった。