「書いちゃった」

知り合いが、「不用意なことを日記に書いてしまった」と言ってる。僕がコメントを入れてアゲたのでアクセスが増えた節もあり…ごめんなさい…。

やっぱり、「書いてしまった」と、自分の書いてしまった行為について悩むのが普通で、「ま、書いてる私と中の私は別ですから…」みたいにしれっとしていられるほうが変なのかも知れないなぁ。他人はそんなにテキスト中心主義じゃないっていうか、書いた私は私自身とあんまり分離してないっていうか…。

しかし実際、あのときあなたこう書きましたよねぇ、って昔の記述を引いて来られても、はぁそのときはそう書きましたねぇ、みたいな対応しかできないのであり、そりゃその書いた事実に対しての責任はあるけど、今の自分はその書いた内容に対しては責任はあんまり取れなくなっていくわけで。

んー、なんかこういうふうに書くと、一部の人に「じゃぁあなたやっぱり書いてることに責任を負わないってことじゃないですか」って言われそうだけど、そうじゃないので…。一部の人っていうのは、現在の自分と過去の自分の断絶を信じないような人、えーとたとえば、プログラムを書くときにコメントを書かない、とか、常に出来るようにスタンバっておけって簡単に他人に言う、とか、いつまでも必要以上の補償をいろいろ言うとか、そういう感じの。

もうそれは生きる教理の違いなのかも知れないなぁ。まぁ、過去のわたしについて、頭を下げろと言われたら下げますけど、あんたは私とあなたの教理が違うことを理解してそういうこと言ってるんですか? みたいなことは、考えるかも。

僕(モニタの前で終業後こうやってパタパタ書いている、僕)は自分の日記を「一番親しい人間が書いた、なんかおもしろいこと」みたいなふうに思っている。一旦書いてしまった後は、書いた僕は親しい書き手だし、読んでいる僕は最初の読者だ。

だから気持ちは楽だしいくらでも虚偽虚構は書けるのだけど(事実と違う、ということではなく、自分の文体によって事実を虚構として扱うことが可能、という意味)、それだからお前は不真面目なんだ、ということでもあり、この書き方がいいのかは、よくわかりません。

ただ個人的には、ツッコミ可能な日記でコミュニケーションしてる、という以上、簡単にわたしを晒して傷つかないために、そうやって文体・話芸・スタイルで遊べる、という能力は<使える>と思うし、日記的には、そういう人が好きです。

…この話は、「すでに多数決で決定したことにあれこれ言うのにも動機がある」ないしは「日記に自我を入れ込んで、批判すなわち自我への攻撃とうけとって撤退するのって、おじさんちょっと寂しいな」という話に接続しているのだけど、それはいいや別に。手がつかれた。