『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』,桜庭一樹

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない (富士見ミステリー文庫)

ディクスン・カーのガジェットをバシバシ撃ってくる舞城王太郎、かと思って死にそうな思いで中盤まで読んでたら、おしまいは一応ライトノベル的? な締め方で安心した。この安心というのは、「ヤバイヤバイヤバイ」みたいな白痴的感想を書く対象が増えなくてよかった、という安心だ。

本格ミステリがつきつけてくる「さて、どこからが嘘か?」という境界の問題を匂わせながら物語は始まる。海野藻屑の言っていることの、どこまでが真実で、どこからが解釈なのでしょう。そうして本格ミステリではその境界が定まり、図と地がくっきりと描かれることによって物語が終わる。

しかし本作のテーマはそこから逸脱してしまう。現実を説明する虚構はどこまで許されるか。虚構によって現実を見なかったことにすることは本当に可能なのか。ミステリ的な小技を効かせながら、テーマは、たくみにすり替えられてしまう。嘘によって現実を語り変えようとする少女、現実に生きることを選ぶ少女、そしてその兄。

兄によって小説世界と読者はつながっている。兄は、神の視点を持つもの、つまり、読者だ。読者、ライトノベルを読み、ミステリを読み、ストックホルム症候群やミスディレクションについて滔々と語る読者の後ろから、銃弾が飛んでくる。

読んでいるおまえは、どうなのだと。現実からひととき目を背け、パターンにのっとって虚構を分類するだけのお前に、何の力があるのだ、と。

危険な話だ。うっかりこの本を人に貸して「ミステリ的にはわりとね…」などと蘊蓄を披露しようものなら、即座に足もとをすくわれてしまうだろう。

奈津川四郎が、後ろからこの本をのぞき込み「おい、お前またこんなくだらん本読んどるんか」と頭をどつきにくるのではないか、そのようなおそれを抱きながら、2/3までを読んだ。

このまま話の底が抜けてしまったら『世界は密室でできている』(むしろ『暗闇の中で子供』?)以上の傑作なのであり、どえらいことになる、はずだったが、やはりそこはレーベルの制約なのか知れず、拡げた風呂敷を畳み、情感の処理をしてきれいに終わってしまった*1。ハァハァ。

ミステリを読む楽しさを、どこから矢が飛んでくるかわからない、というところまで拡げたのが新本格なら、さらにノンジャンルで何をされるかわからない、というところまで拡げているのが、ライトノベルで展開するミステリなのかも知れない。などと思った。いつもこんなんばっかだと疲れるけど、たまにならいいです。

*1:まとめかたにおいて、きれい、という意味。救いのなさは予想の範囲内でしょう。