『翼ある闇』麻耶雄嵩

(文意を損なわない程度に修正した。)

翼ある闇―メルカトル鮎最後の事件 (講談社ノベルス)

翼ある闇―メルカトル鮎最後の事件 (講談社ノベルス)

事件に意味などない。人物は人形のよう。何も残らない。謎解きは「はぁ、そうかいそうかい、そういうこともあるかもしれないね」。最後に明かされる<隠された真相>にいたるシーケンスは、驚くべきマンネリズムの結晶だ。

それでも、こういう作品を生んだ「新本格」全体に、敬意を表したくなるですよ、これを読むと。

本格の「謎」に関する語彙をうんざりするくらい積み上げて、そして律儀にその謎を説明(解明じゃないな…)して、与えられた情報の中で結末をこね上げる姿は、逆説的に、どんな題材でも「本格」の対象に成りえるんだ、ということを証明しようとしているかのようだ。

「こんなんわかるか!」…わかりませんが何か?

この本を読んだ後の、すがすがしい脱力感はなんだろうか。

読了すると、それなりに、「やられた」と思う。描写のわきの甘さから、どうせくだらないトリックで説明されて終わるんだろう、となめてかかってたら、その甘さこそが一種の目くらましだったことがわかる。あーちょっと違うかな、「甘い」と感じていた部分までが土俵だったことがわかってびっくり、という感じか。探偵の馬鹿推理ですら飲み込んでしまう真実。

…しかし…考えてみると、結末の説明を読者が論理的に自力で導き出すことはほぼ不可能なのであり、この結末に「それがどうした!」と言うのも全く正当だ。「こんなんわかるか!」

…でも、「わかる」ために読んでるんじゃないんだな。「わかる」ことが目的なら、途中で犯人がわかった時点で読むのをやめてもいいだろう。わかるはずが、結局わからない、という話だったら、「本を壁に投げつけたくなりました」、ということになるのかもしれないが…。そんな厳格なものなんだろうか*1

ゆるい「本格」

つまり。

ページの頭があって、終わりがあって、読者の注意力があって、それに気づかれないようになんか書く。そして最後に、作者は、ニヤニヤ笑いながら、読者を驚かせる。その程度の構造が守られてれば、あとはどうでもいいんでねぇの?

この本は、そのようなことを、言っているんだと思う。

全部読まなくても、いいんだよ

本格ミステリとは、過去に登場した本格ミステリの仕掛けを全て読者が知っている、ということを前提に書かれるという、特殊なジャンルだ。楽しみを最大にするには、古い物から順番に読む必要があるし、新しく作品が発表されるたびに、残されたトリックの数は確実に減っていく…。

…なんてことを真に受けて、E.A.ポー(あるいは、もっと前?)から順番に、全部読まなければ楽しめない、ような、重たい気持ちになってる人や、逆に「所詮はネタを消費していくだけの閉じた楽しみだろ」という人は、この小説(?)を読めばいいと思う。

どうでもいいんだよ、そんなことは。

新本格」と言えば、…綾辻行人にはじまって…だれだれが続き…まずはこの作品から読むのがよくて…これを読んだら次はこの作家さんで…あーどうでもいい! まーじーで! オレがびっくりしたらそれはミステリなんだよ!

ミステリ読みのために用意された、一つの出口。

後記

あきらかに誉めすぎだと思います…。

*1:もちろん…厳格なふりして実はそうじゃなかった…みたいなものには、ムカツクわけだが