3.『ニッポニアニッポン』
- 作者: 阿部和重
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/07
- メディア: 文庫
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動機
薄かったから。阿部和重だから。
内容
鴇谷春生は、自分の苗字につけられた「トキ」という名前から、佐渡島で保護されているトキに興味を抱いていた。高校を中退し、都内で親から仕送りを受けてひきこもり生活をつづける春生の中で、トキに関する計画が形を結ぶ。インターネットで入手した断片的な知識と道具で、春生はトキの抹殺を具体化させていった。
感想
読みやすかった。
いろいろな読み方ができるだろうけど、まず、インターネットによって自分の欲望を形成することが前提になっているという点が、同時代的(あぁ少なくとも自分にとっては)だと思った。ちょっと、他人ごとじゃない。
たとえば今僕は、「本を100冊読んでその感想を日記にあげること」、などとして、自分で自分を規定しているわけだ。自分に足りないものがなにかある、と、勝手に煩悶し、その穴ぼこを、別の何かで埋めようとする。自分はこれなのだ、と、思いこみ、それに没頭することで、自分を形作ろうとしている。
そういうことは、高等遊民と呼ばれていた人の特技だったと、僕は思うが、(1)大抵どんな情報でも自分から等距離にある、インターネット(2)とりあえず飢え死にすることのない社会、が、万人に高等遊民になる条件を与えた。
(1)について。特に、検索するという行為は意義深い。疑問の答えがすぐに手に入れられるのではなく、「検索」という謎解きの手続きを経なければならない、という仕組みが、カス情報であっても何かの謎を秘めているように見せているのかも知れない。
(2)について。本作の主人公は、なにやら緻密にトキ殺害の計画を企てているように見えるが、それは全て親の金だ。しかし、就業者にしたって、自分の就いている職業を本当に自分の仕事だと思っていないのであれば、大差ない。一日八時間会社の椅子に座っていることでお金を貰っているが、これは本当の私ではなく、本当の私は…インターネットに…あるはずなのだ…。
要するに、目をつむってしまえば、「本当の私はここにはない」というほっかむりを、死ぬまで続けることができるのだろう。
高校のときの運動会のパンフレットに、実行委員長だった先輩が書いた「後記」を思いだした。「最近僕は僕ではありません」。つまり、授業を受けている僕は僕ではない、委員会でカラムーチョを拡げて何の役に立つのかわからない激論を戦わせている僕が僕なのだ。気が付けば、そういう人たちと近づきになって自分も運動会や文化祭のことをやるようになっていた*1。春が終われば次は秋。いつまでもその繰り返しだと思っていた。僕の学園祭の前日は終わっていないのかも知れない。*2