(テレビ)ゲームについて、なんで人はリアリティ批判するか 2
テレビゲームの場合、おおざっぱにいって「システムむき出し」→「リッチなH/Wのもたらすエクスペリエンス」という方向に徐々に「ゲーム」の定義が変化してきたと言えるので、「小説」のサブジャンルとして「SF」が成立したのとは事情が違っている(エクスペリエンス派の人もシステム派の人も同じように、自分が認識した時点でのゲームを「ゲーム」と言う)。
ゆえに、ある人とある人の間で(殊に世代間ギャップ)おなじ「ゲーム」という言葉が示すものが違う、ということがおきやすい。
あるところで、「システム」でも「ルール」でも何でもいいので、広義のゲームの中の1つの方向性・サブカテゴリとして、みずからを自己定義すればよかったのだろうが、そこは曖昧なままになってしまった。
加えて、「システム」という言葉は、「アクティブタイムバトルシステム」といった、単なるゲーム内の実装を表す、やっすい単語として矮小化されてしまった、ということもあるかもしれない。
総じて、やってる人が、言葉の拡がりを求めなかったからじゃないか、というのが結論。そうでなければ、もうちょっと高い年齢層がちゃんと読むファミコン雑誌があってもよかったはずだ。
アナログゲームに関しては、そういうことがおきないでほしいなぁ、と思う。
付記 2
世代によって「ゲーム」の言葉の中身が違うという前提に立つと、「子供はテレビゲーム好きだからアナログゲームも遊ぶだろう」というシンプルな考え方も、再考を余儀なくされる。
このことはアナログゲーマーに30代が多いことにも対応している。
30代にとって「ゲーム」とは無骨な「システム」そのものだったから、「エクスペリエンス」化する最近の「ゲーム」についていけずに、「システム」重視のアナログゲームに路線変えする可能性もたかい。
逆に言えば、若い人にとっての「ゲーム」とは、何か勝利条件を達成するために目的を持って抽象化された「システム」のことではないかも知れない。
世代でしぼらんと、SF読みや本格読みみたいな、形式的な思考ができる人を狙ったほうがいいと思う。