心的距離について

心的な距離って何だろう?

ストックって何だろう?

私には、そういうものが解らない。

そもそも私は、「いくばくかのお金を送る」ということ(気持ちを価値に転換して送ること)ということのほうが、意味がわからないです。

意味がわからないなりに、目の前に苦しんでる人がいるのだからと、あえて、そういうことをするとします。そうすると次に考えるのは

  • 「自分は**で苦しんでる人に今これだけの価値を送ろうとしてる。でもそれだけ送るのであれば、同じように▽▽や□□で苦しんでる人にも、同等の価値を送るべきなんじゃないのか」
  • 「私は私の住む世界のどこまでに責任を感じればいいのか」

といったことです。

たとえば友達が火事で財産を失ってしまった、というとき、よければ使って、と、私は数万円を手渡すことができるかも知れません。しかし状況としてそれよりもっと悲惨かもしれない外国の被災者に、私は数万円を送る余裕はない。

義捐金」がイベントとして(これはニュートラルな意味です)発生するたび、なぜそんなことで悩まなければいけないのかと思います。

義捐金の仕組みを活発にする」というのは、はてなの活動の中でもっとアピールしてほしい、もっと簡単に送金(ポイント)できるようにしてほしい、といったことだと思います。それに非を唱えるものではありません(要望として一緒にすべきではなかったかもしれません。ごめんなさい)

ただ、「義捐金」イベント(ニュートラルな意味です)が発生するたびに、「この前こういうことが起きたときにはいくらいくら送ったよなぁ…」みたいなことを思いだして、そういうことを比較したり、気持ちを価値に転換するレートを考えてたりする自分にうんざりしたりする。

(なので私は、「一日にコーヒー一杯分の我慢で**が救えます」であるとか、そういう、気持ちを軽々しく価値に転換するようなことを考えるのに、抵抗がある)

そういうことを、システム的に解決できるんじゃないかな、と思っただけです。

「真心が足りない」と言われれば、そうなのかもしれないです。そういう計算を超えて、手をさしのべるような気持ちこそが大事なのだと。

しかし、私にとっては、「毎回そんな倫理的なレイヤーのことを考えさせられる」ということは「毎回送金するたびにはてなに手数料が行ってしまう」といったこと以上に、負担です。

ポイントをプールしておいて、何かあったときに一定分そこから出す、というのは、いかにもお金持ち的な発想なんでしょうか。でも、それで救われる人が増えるならいいんじゃないでしょうか…あぁいや、こういう結果オーライ的な言い方は認めてもらえそうにないですが…。