サブプロセスとしてvmekkenを走らせることができる理由

昨日のエントリは後半小二化して茹だった頭で書いていたのでどう誤読をうけても仕方ない。(いや、そうじゃない時などないですが)

いろいろフォローをしたくなるのだが、前提としてわたしが何故vmekkenに考えを乗っ取られないか、その理由を書いておく。

あのエントリの後半の蛇足が、「論理的なvmekkenに追いつめられたわたしが、大声(太字)で切れている」かのように思われたのであれば、それは心外だ。vmekkenには大きな屁理屈の穴がある。わたしはその穴から手を入れて、vmekkenをパペットとして操作することができる。vmekkenの主張をおさらいしてみよう。

「ブログというのは、一度書いてしまったら、<web2.0>によってすべての情報が浚われて再構成されてしまうものだ」

これは正しい。

「その流れは止められない」

これも正しい。ここまでは、vmumedamochioと互換でもある。

「その結果起きることがいやならインターネットを使うのをやめるか、<web2.0>の手の届かない(見るのに認証が必要な、クローズな)ところでこっそりやるしかない」

この飛躍を目にしたときわたしは笑い出してしまう。ハァ? 「しかない」とは?

web2.0>が集約と再構成を突きつけてくる、という事実に関しては認めよう。でもなぜ「慣れるか、やめるか」という二者択一なんだ。

そりゃ、最終的には「慣れるか、やめるか」だろう。でもそんなことはあたりまえのことだ。人はいつか死ぬし、雨が降ったら濡れるし、食べたものはうんこになる。「慣れるか、やめるか」にわたしはその程度の意味しか感じない。

昨日書いた蛇足で、わたしは、vmekkenに、検索で私の過去日記にふらっとやってきた人が心ないコメントをしたということにまで、その「慣れるか、やめるか」という二者択一を適用させている。この突拍子も無さが笑えないというのは、…まぁきっとわたしの書き方が下手なんだろうね。