事実を検証するのめんどくさい派の主張

読むということは、それだけで、常に何か、認識の変化に自分を晒すということだと思っている。

与えられた情報が公平さを欠くということに対して、これは情報操作だ、と憤る気分というのはわかるのだが、自分自身に関して考えると、右に傾けられれば右かなと思うし、左に傾けられれば左かな、とも思う。

どのような解釈も、答えのない相対的な主張(aka.洗脳合戦)に過ぎないのだからそこに公平さを求めても無駄だ、というつもりはないし、公平さを求める努力は貴重だと思う。

しかし「偏っているかも知れない意見」を読んだとき、自分の中に生まれるのは、公平さを希求する感情よりも、多様な読みへの欲求のほうが強い。右という人の意見を読んだら、左という人の意見を読みたくなる。あの子はいじめを苦に自殺したのだ、という意見があったら、そうではない読み方は出来ないのか、考えてみたくなる。

本を出版したり報道したりする人が、偏らないことを言う責務が、どれくらいあるのか、自分にはよくわからない。しかしその基準がなくても、多様な読みへの欲求を動機にすれば、ある程度、精神の健康性は保てるのではないかと思う。

間違った情報に踊らされる人、というのがいるとして、その人達に必要なのは、公平で正しい情報というよりも、…えーと、何だろうな。

メモ

冒頭書いた「認識の変化を覚悟する」ということについて書き足りないような気がするのでメモしておく。

古典に取り組むというのはそれが多くの目を経てきたからというのもあるが、それが自分の認識を大きく曲げてしまう魅力を持っているからかも知れない。自ら曲げてもらうために読むかも知れないし、曲がらないようにあらがいながら読むかも知れない。いずれにしてもそのことが胸を借りるということなのかな、と思った。