科学を根拠にしたトンデモ排斥
べつに私は、自分が科学の徒という自覚はないから、科学そのものをトンデモから守るべきだという義務感は持っていない。現代社会を成り立たせている科学に対してある程度の尊敬を持っている程度。
そういう普通の私であるから、科学的データを根拠にしなければ、「水伝」「ゲーム脳」「(人に押し付ける類の)占い」から身を守れない、ということになると、いささか不安になる。
科学的かどうか、ということだけが問題になってしまうのがなぜ不安か。
たとえば「ゲーム脳」の主張が無効であるということを言いたいとする。それには、「ゲーム脳」説が根拠としているらしい実験データには大した意味がない、という証明が要求される。「ゲーム脳」説主張者以上の綿密な検証をしなければいけない、ということになる。
私は科学者ではないから、そんなことを考える必要はないのかもしれない。しかし、反証出来ないのならおとなしくしていろ、ということになってしまう可能性がある。
子供がゲームをやりすぎてるのであれば親がファミコンを踏みつけて割ってしまえばいいだけの話なのに(私が中学生のときは親に踏まれた友達が複数いた)、なぜ(自称)科学の話になるのか。
人文的な解決がいくらでもありそうな問題を、普通の人が反論できないように、科学に後ろ盾を頼むのは、科学的事実の検証の必要性以前に態度として卑怯である。そのことに対しては誰でも腹を立てる権利があるし、科学に対して強い義務感を持たない普通の人は、その領域で自分を守っていくしかないのではないか、と思う。
科学的に反証できない人は、科学という土俵の上ではおとなしくするべきだが、それ以外の部分でおとなしくするいわれは一切ない。
…とかいうことをこの日記で繰り返し書いていたが、昨日簡単に説明されてしまった。