もし人生が神のデザインした「神ゲー」だとして
(ブクマついていたが、文意を損なわない程度に修正した)
人生全体を、本当にゲームと言いたいのなら、「自分がひょっとしたらシステムを見切って飽きてしまうかもしれない」という覚悟をしてゲームにのぞむべきだ、というのが簡単な感想。
「人生は神ゲー」と言う人に「人生はそういうものじゃない!」「どうにもままならない人生だってある!」と反証を示そうとしたって、「神ゲー」言ってる人の理屈の枠組みに回収されるだけだ。私の言うことがわからないのは、あなたがまだゲームの目的を見いだしていないのだ、なんて返されたりして。うへー。
この不愉快な感じをたどると、「人生はそういうものじゃない」ではなく「ゲームとはそういうものじゃない」というところにいきつくような気がする。逆張りっぽいが。
ドイツのボードゲームやってるおれの仮想敵として、陽気なvmアメリカ人というのがいる。vmアメリカ人は、直接相手から金を巻き上げたり、相手にカードでアタックを仕掛けたり(なぜアタックするのかは無根拠)するゲームが大好きで*1、「It's a game, haha」と笑っている。
そういうvmアメリカ人が出てきたときには、お前の言うゲームってモノポリーのことで、お前それしか知らんのやろ、と鼻で笑い返すことにしている。
具体的には、直接攻撃度の高いゲームを前に「これデザインだれ? アメリカ人? あそう…」とため息をつくわけだが、それはおいといて。
「お前それしか知らんのやろ」とは、自分がvmアメリカ人よりたくさんの遊びを知っているということではない。自分だって他の多くの遊びの楽しみを知らない。「ゲーム」という言葉の意味が、人の数だけあるということだ。「これはゲームだ!」と言われても、へーあんたにとってはこういうのがゲームなんだね、としか思えない、ということだな。
上のエントリを書いた人が、人生を「神バランスのMMORPG」という枠で見るのは、結構なことだと思う。しかしMMORPGが嫌いな人もいる(例:おれ)。そういう人に同じ認識の枠を強要しようとしている、ということは、自覚していいと思う。
自分に認識できる「ゲーム」には限りがある、という限界を示さずに、同じ「ゲーム」の土俵に上がらない人に対して、こんなに面白いのに、と礼賛だけするのは、どこぞのボドゲ厨*2と変わらん。
つらいこと面倒なことをメタ化する枠組みとして、局所的にものごとをゲームとして認識する、ということであれば、言われなくてもみんなやってることだと思う。「ライフハック」という言葉なんてその最たるものなんじゃないか。
しかし人生全体に関しては、これはゲームだ、とは言いたくないのが普通だと思う。そう言ってしまった瞬間にシステムと勝利条件が固定されてしまい、他のシステムを選べなくなるので、飽きへの恐怖と戦わなくてはいけない。
人によってシステムが違ってみえて、そのシステムはある日突然、プレイヤーの考え方次第で変わったりする可能性があって、だからゲームが生成されるプラットフォームとして面白いかも、ということなら言えるかもだが。
追記
もっと面白く書きたい人に素材をメモ。お使いください。
- ラーメン屋として生きるのは退屈じゃないだろうか
- 仕込み大変だし、毎日同じことの繰り返しだし
- (これは門外漢から見たときの単なる印象)
- そこに神ゲーマン登場「これはゲームなんだよ!」
- 客あたりをよくしたり、損益の計算方法を勉強したりして、スキルがあがった
- 昨日よりちょっと幸せになりました
- しかしそれが全てなのか
- ラーメン屋のあるじの脳裏に浮かんだ「一からカレー屋をやるのもいいかもな…」ほかの選択肢はどこに行くのか
追記2:結論
「人生はゲームだ」と積極的にいう人は、他のゲームシステムを想像することを自分で捨ててるよね。