非コミュ=病気?

http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/discomm.cgi

非コミュ」の診断というのはよくわかんないなぁ。生きにくさを表す言葉として、自分を「非コミュ」と定義した、というのが最初にあるのだから、その定義に自分があてはまるのは、当たり前じゃないのだろうか。

わたしも、症例としては、自分が「非コミュ」だと思う。上の診断項目にあてはまることも多い。多いけど、それが「非コミュ」という定義なんだろう。

実は非コミュとは、定義ではなく何かの「病気」で、原因がわかっていて、決まった対処をすることで、治っていくものなのだろうか?

薬を飲んだり、年齢に応じた服装をしたりすることで(30代になったらジーンズをはかないとかパーカーを着ないとか…そういう…)、「非コミュ」が治って人付き合いがよくなるのなら、わたしもぜひ診断を受けて、症状に応じた対応をしたいと思う。

でも、わたしが生きにくいのは、わたしの問題であり、それを治すのは、結局わたしの全方位的な努力であり、わたしの生き方を変えていくしかない。外からどんな言葉で分類しても一緒。

わざわざ「非コミュ」という定義の鎧を着せるのはなぜだろう? 自分をそう定義するほうが自分の生からはなれていくような気がするのだけど。

あ、こういうことを言うと、「やればできるなんて思ってるからだめなままなんですよ! 自分が非コミュだと認識してない人ほど怖いことはありません! 今すぐ! 今日からやりなさい!」って怒られるのかなぁ。vmコミュに。難しいな。いや難しいっていうか、そういうのは無視していいですから。(そういうふうに言ってくる人と話をしても、非コミュ非コミュであるという問題…自分が非コミュであると定義してその中で悩んでしまう問題は解決しないんじゃないだろうか)

まぁ、いずれにしても…「非コミュ」を診断する、というのは、「年収500万未満」を診断するのと同じようなことに思われる。「はぁーそうですかー、そういう区分が出来たのならそうなんですねー」と思うというか。

追記

http://b.hatena.ne.jp/SeiSaguru/20070426#bookmark-4565208

一人、生き難いなぁ って感じるなら、自分のせいだけど、それがほとんどの人がそう感じるなら、個人の責任ではないと思ふ。

誰の責任か、とは思ってないです。誰の問題か、とは思うけど。

生きにくい構造が社会的に出来やすいということを問題にしたい(なんらかの運動にしたい)のなら、自分なら「非コミュ」という言葉は置いといて、あらためて別の言葉を探すんじゃないかと思う。

キーワード「非コミュ」の記述を読んだ。「非コミュ=自己責任」という構図にされてそこから二進も三進もいかなくなるのが問題、ということなんだろうか。

それはその通りだと思うけど、非コミュ診断、みたいな娯楽に(娯楽だよね?)結びつく嫌な感じというのは別にある。

…あぁ、こういう自分自身の実存に関わる話は、書いてるとエキサイトしてくるので終了。

キーワードに面白い(よくわかんない)ことが書いてあるのでもう少し読むことにします。

追記2.

http://b.hatena.ne.jp/wushi/20070427#bookmark-4565208

非コミュ』の定義は『非コミュである事を思い悩む人』なのかなぁ、と思ったり。GNU is short for "GNU is Not Unix"みたいな

そう思いますが、言語化すると「自分が非コミュって思うから非コミュなんだよ」という体育会的詭弁にとられてしまいやすいので言いにくいです。