「ではまたどこかで…」など、ない

ある人のブログが閉鎖したときに交わされる「またどこかで」というカラっとした言葉について考えた。

私には、「またどこかで」という感想は、ない。いや、この日記を書いている【私】にはそれはあるが、こうやって読者に読まれている、書かれたほうの私には、ない。わかりやすく言うと、そういうことは、思ってもなるだけ書かないようにしている。

たとえば何かもめ事が起きて、

ご不快に感じられることがありましたら土下座してあやまります。このブログも、閉鎖することにします

などと、書かれた記事があったとしよう。

そこにどれほどの【中の人】の気持ちが込められているかは、測定できない。仮にもし測定できたとして、それがどうした、と、読み手だっていくらでも居直ることができる。文章に誠意があるだのないだの傷ついただの、印象でしかないことを、どれだけ書いてこね回しても無駄だ。

idなんとかの【中の人】が本当にどんな気持ちだったかなんて、「わからない」。読んでいる【私】の内心では、どんな納得や臆測をしたって構わない。手っ取り早く知った気になりたきゃ、直接会って飯でも食えばいいでしょう。

でも、少なくとも書かれた世界の私からは、そのことに関して、わかったふりをするのを、やめようと思うのだ。

(実際には【中の人】【私】に近いやりとりもするから、これは規約ではなく指針みたいなものだけど。)

書かれた世界においては、書かれたものが全てだ。書かれているとき、読まれているとき、idなんとかは生きている。テキストに読者が目を通すたび、レコードに針を落とすのと同じように、idなんとかは再生される。数分前に書いた誰かのエントリと、数千年前に原文が書かれた哲学者の本は、同列に扱われ、読み手である【私】の時間によって辿られる。

idなんとかが、日記の更新を止め、webから痕跡を消したとき、それはそのidが「死んだ」ことを意味する。【中の人】に何が起きたのか臆測するのは自由だけど、それはidの死とは関係のないことだ。なぜ止めたか、書いていた本人にだって、理由が説明できないかも知れないし。

そういった【中の人】の事情を全て括弧に入れてしまえば、idとテキストが消滅した、という事実だけが残る。「またどこかで」という言葉は出て来なくなる。

idの死を前にして、書かれた私たちは黙るだけだ。

idなんとかであるところの、書かれた私/書かれたあなたの実体とは、それが書き続けられる可能性と、書かれたものが読まれる可能性、そのふたつの可能性、そのものだ。だから書かれた私は、消えてしまいそうな日記に「どうか死なないで欲しい」と思う。

ついでに書いとこう。よくある「嫌ならサービス変えればいいのに」という言葉は、書かれた私にとっては「死ねばいいのに」と同様に無神経だ。サービスを使っている【私】のレイヤにのぼってしまえば、めんどくさい以外には、どってことはない話だが…。

でも、もし【私】だけだとしたら、私はどうして、まだ、ここにいるのだろうか?

更新が止まっていても、死なずに、可能性として口を開けている日記がたくさんある。書くの止めますと言いつつ、だらしなく続く日記もある。私はそれらに、「ありがとう」と思う。

んー

逆側から書いたのに、結論がやっぱり「ありがとう」とはどういうことだ。

webサービスへの要望

一定金額を払えば、テキストを半永久的に保持してくれる場所を作ってほしい。魚拓や書籍といったローテクなものにたよって生きざるを得ない日記たちに永遠の生を。

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