あきらかなルール丸写しのゲームを見たとき感じる不快感(は不快感であってそれ以上の大したもんじゃない)
先日からぼちぼち書いている、「原作に全く言及せずにそれと全く同じルールのボードゲームを別の名前でぬけぬけと出す」件について。
- http://tenkuban.jp/www/index.html
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
- google:天空盤 ガイスター
かりにこれ、権利関係がはっきりしていても、一抹のイヤな感じは残るわけです。
で、そのイヤな感じっていうのは、「チケット・トゥ・ライド」が日本で発売されたときに
究極のボードゲーム
という惹句が付いていたのを見たときの、イヤな感じと近いんだけど…。なんかもう美醜の問題っていうか批判でもなんでもない「むかつく」レベルの話だけど。
「究極」って、一回しか使えないのに、それでもし仮に売れたら、あとはどうすんの? おれ、日本で安定して売って欲しいゲームがほかに何百個かあるんだけど…と、これ初めて読んだ時に思った*1。
このゲーム、今ドンキで999円で売られてるらしく…死に馬に鞭打つつもりはないですが…。
追記
天空盤の話題では、「ルールの著作権」という言葉は使うものの、実際のところそういった、「ボドゲ村への目配りのなさ」に対して憤ってる人が多いなと思った。
「著作権」その他の諸権利の話であれば、当事者どうしが話し合うしかない。ユーザーが憤る意味はあんまりない。法で権利として明記されたこと以外の領域に対して、不安を感じる(ルールのコピーを完全に認めるとパクリ商売でボードゲーム業界が破壊される、etc)からこそ、「でも、そういうの愛がないって思うんですよね…」とか何か言いたくなるわけだ。
「チケット・トゥ・ライド」の例で挙げたように、自分も、そういったボドゲ村の思考をしている一人なのだと思う。でも、そんなものは別の立場では一顧だにされないこともありえる、というのは、考えておいていいと思う。
どっちが間違っている正しいの話ではない。単なる遊びにたいして、創意を凝らして仕組みを設計して、それを職業(収入源という意味ではなく、Berufみたいな…?)*2にしている人がいるということや、それらデザイナーの創意を楽しんでいる人たちがいる、ということじたい、ある種の人たちにとっては、想像の外にあることなのかも知れない。
ということで、「このゲームは実はドイツのデザイナーが…」と、此方の正当性/相手の不当性を云々するのではなく(俺が正しいって念じるだけで世界が変わるならずっと念じていればいいですな)、広く、自分たちの村の主張を聞いて貰うための戦術を考えていったらいかがか、ということになるんだけど。
あとはこのへんにだらだら書いた。