「おもしろい」「つまらない」について

特定のものを「おもしろい」「つまらない」と書くにしても、最近のなんとかが「おもしろい」「つまらない」と書くにしても、書いて人目にさらすことで、その感想はなんらか社会化されているので、これを単純に<お前が面白いと思うものを探しつづければいいのに>とか体育会的な理屈でばっさり切っちゃうのは、何だかなーと思う。

確かに「つまんない」と書く奴は、だいたい本人がつまんない奴だ。でも、そう書かざるを得ない心のはたらきを詳しく語る人はあんまりいない。

「おもしろいつまらない」と感じることが問題になるのではなく「おもしろいつまらないと書く」時点で、問題になるのだ。

ひとはよく、人が「つまらない」と言った結果だけを見て「ネガティブ評価」と呼ぶ(簡単っすね!)。で、そんなネガティブな表明は意味がないのだから書く必要ないのに(あるいは、書かなきゃいいのに)ということを言う。

人が見ているところに「**はつまらない!」と表明することは、結果から見ると、自分の人生の損ではあるかもしれない。大してだれも得をしないわりに、「ネガコメ」とか言いたい頭の人とやりあいになるデメリットが付いてくる。でもそれを根拠に「損なんだから書かなければいいのに」と、かんたんな理屈で、他人の意志決定の領域にまで踏み込んでなんか言うのは、気に触る人もいるんじゃないかなぁと思った。