ヒアアフター
info
cast
name | cast | memo |
ジョージ | マット・デイモン | - |
マリー | セシル・ド・フランス | - |
マーカス | フランキー・マクラレン | - |
感想
ヘンに普通の映画だな……音楽が印象的。絵づくりもわざとらしくなくハっとすることが多い。
……あまりに「普通にいい」ので、掘り下げ始めると、いろいろと考えてしまう。以下箇条書きで。
めんどくさいことを考えなくても、いいシーンがたくさんあるので普通に人におすすめできる。
80点。
ノート(ネタバレ含む)
- この映画のテーマは「死後の世界」ではなく「死後の世界について考えるひとたち」の映画であるということ。
- そもそも死後の世界はあるのか問題
- この映画の「死後の世界」は、あくまで人間の想像の産物だという前提で考えてみる。
- マリーの見たものは、「臨死体験=脳内現象」という説明で片が付く。
- ジョージが「つないで」いる場所が死後の世界ではないとしたら、それは何か。
- ジョージは実は「死後の世界」を見ていたのではなく「依頼人の心の中の死者への思い」を見ていたのだと解釈することも可能じゃないのか。
- 一番ハっとするのは、最後の「つなぐ」シーンで、ジョージがマーカスに言葉をかけてあげる部分。「あれ?」と思う。
- 「あ、ちょっと待って、また戻ってきた」……という言葉の後に、感動的な台詞を口にするわけだけど……
- なぜ、映画の中で最も感動させるような部分の演出を、ジョージの口先三寸で「あ、今戻ってきました」みたいな演技に任せているのか。
- そこは本当に「ジョージの芝居」だったのではないか、と、穿って考えることはできないか。「戻ってきた」という部分から後は、ジョージがマーカスを励ますための創作に近いものだったのではないか。(その厚意を感じ取ったマーカスが、ジョージにひとつ、厚意のお返しをした)
- 料理教室で知り合ったアメリアにせがまれて「つなぐ」シーンも、まるでそこに霊がいてもいなくても関係ないように、ジョージはアメリアに、彼女の秘密を知ったことを告げ、そのことにアメリアは泣き崩れて去ってゆく。とても曖昧。
- 死後の世界かどうか、ちょっと曖昧ではあるけれど、しかし、ジョージに見えるビジョンが嘘というわけではない……とすると
- ジョージにどこまでその自覚があるのかは不明だが、ジョージの「つなぐ」能力というのは、死者の世界をのぞく力ではなく、人の死者への思いを読み取る能力なのでは(「霊能者」ではなく単なる「テレパス」なのでは)……と考えてもよさそうに思えてくる。「つなぐ」「読む」という表現を使っていて、死後の世界とはあまりはっきり言っていなかったのでは……(聞き取り能力が低いため未確認)
- だとすると、ジョージは口先だけのペテン師なのか問題
- ジョージは、占い師特有の「曖昧な質問」を使って、依頼人の探している「霊」を探し当てているように見える。マーカスとのシーンでは、マーカスがさんざんインチキ霊媒に騙されるくだりが前に描かれるから、死者を特定するまでが非常にスリリング。
- 結果、マーカスはジョージを信じるわけだけど、つまりこれは、占い師が口にするあの「曖昧な質問」には本当に意味があったんだ、ということでもある。少なくともジョージの質問には意味がある。
- ジョージに霊的な能力がないとしても(映画の中で繰り返し「サイキック」と言っており、それが字幕では霊能者と出るわけだが、サイキックとは必ずしも霊能者のことではないのでは……)、ジョージの質問は虚仮威しではないと考えてみる。
- 「霊能者が霊を特定している」という解釈を、「一瞬頭によぎった、相手の持っている死者へのイメージを、言語化することで確かめていっている」という解釈に切り替えることで、問題なく見られる。
- ペテンなどではなく、ジョージはその「相手の心から掘り起こした死者」に語らせることを「つなぐ」と呼んでいるのだ、と解釈できるわけだ。(それはそれで別の「能力」ではあるわけだけど)
- 私の妄想はさておき、少なくとも、<言語化>は、この映画でとても重要なテーマ。
- 「ジョージがディケンズの朗読を愛聴している」エピソードや、「イタリア料理教室で、目隠しして食べたものを当てる」エピソードも、<言語化>という軸において一貫してる
- ジョージの「つなぐ」能力が、上に書いてきたような<言語化>だと考えると、「目隠しで食ったものを形容して当てる」エピソードと、やってることほとんど同じになるわけですよね
- 何故ジョージが作家とその朗読に惹かれるのか、というのも、ジョージの霊的能力が、イメージの言語化であるというふうに考えれば、無理なくつながる。
- マリーの職業も、マーカス兄弟の冒頭の活躍ぶり(あの名探偵っぷりをずっと見ていたい……)も、「言語化」「読み解く」力と整理すると、「言語化することへの挫折と再生」というテーマが見えてくるような。
- 劇中出てきた「ディケンズの夢」→ http://www.dickensmuseum.com/vtour/firstfloor/study/dickensdream-full.php 。この映画を「シックス・センス」みたいな映画だと考えてしまうと、この脳内百鬼夜行みたいな状態は、ジョージにとっても混乱の種。しかしこの絵をジョージは愛着をもって眺めている。ジョージがディケンズの「朗読」CDを聴いているという設定は、こういうイメージの氾濫が、確かな言葉で紡がれていくことへのあこがれを表現していると思うのだった。
- ってか、たぶんこの「一見よくわからんが、**においては一貫してる」話は、今日(3/5)のシネマハスラーでもっと的確に宇多丸さんが言うだろ! (シネマハスラー「インビクタス」の評からの類推) 少なくとも俺が「つないだ」宇多丸の霊はそう語っている。
- 最後のビジョンは誰のいつのビジョンなのか問題
- ジョージを霊能者だと思っていると「あれ?」と思ってしまうわけだけど、ここまで考えてきたように「いや実は心のイメージを読み取る能力かも」と思っていると、このシーンもそれほど違和感ない。つまり、ジョージは他人の心に振り回されるのではなく、自分の心に浮かんだビジョンに正直になろうとしたんだ、というエンディング。
(tbd.)