日記 (見えない混乱)

afternoon

九州ではすでに見ない振りをしていれば「かわいそうねぇ」くらいの感情の動きで日常を送ることができる。

座って作業した後、定例会。

町中で募金を呼びかけている人々。しかし君、この前は街頭に座って言葉書いたりしてなかったっけ?

震災前のツイートを最後に消息の知れないkさんのことを皆ひそかに心配していた。

twitterを見ていると、時々刻々と状況が変わり、情報が流れてくる。自分にできることはそれを右から左に流すことではないなと思う。それは詳しい人や当事者に近い人がすることだ。しかし何が当事者で何がそうでないのか? それがわからない自分は、悲しい気持ちの人とそれを共有するくらいしかできないのかも知れない。

evening

3人でアフター。何か相談事がある人がいるらしく、なら今飲んでるからこっち来たら、という話になりかけたそう(詳細不明)だが、それは本人が帰宅した後らしく叶わず。しかしその場の3人が、「ジェノバの商人」(交渉ゲーム)が大好きで3人全員が一つずつ買って持ってるという最悪な性格の持ち主であることを考えると、その人は来なくて正解だったかも知れない。

来年度は何を柱にゲーム会をすごそうか、と考えあぐねていたが、若い人や最近始めた人に、自分が知っている傑作を一つずつ紹介する、ロートルとしての役回りを果たせばいいのかな。

帰ってきてこれを書いているが、自分はのうのうと遊んで飯食って生活しながら、のうのうとできない人々の声を聞くというのも、これはこれで複雑な気分になるものだ。この緊急時にtwitterに生活雑記を書くな、などという人もいそうだから、あまり書かないようにしているが、それは単純に波風を立てたくないだけの理由で、心情的には普通に生活していることを書くべきだと思う。そもそも、のうのうと生きている人間と必死な人間は、震災が起きる前にも、重なり合って別の時間を生きていた。そのありようが、震災をきっかけにはっきりしてしまった、ということなのだろう。ネットを日常的に使っている人ほど、その複雑な重なりを背負いながら生きていくことになる。

消息が知れない人がもしそのままだったらと想像する。仮にそういうことになったとしたら、残った自分に何か継げるものはあるだろうか。で、そういう殊勝な思いつきを忘れないようにするにはどうしたらいいか。殊勝な気分のうちに考えの核を作ってしまうべきなのかも知れない。