同人活動の成果が受け入れられる如何は製品クオリティの問題じゃなくて受け手の問題だよ(ということにしたい)

……という話を、いつだかtwitterで書こうとしてたときのメモが見つかったので、ちょい書き足して貼っておきます。


(1)たぶん「同人ゲーはZ-MANなんかからメジャーで出ればいいじゃない」っていうのとは、私は立場が逆で、同人作品は同人作品として楽しめるような雰囲気であってほしいんですよね。クオリティはわきにおいて。

(2)コミケの会場で同人誌出してる人に「君たちそんな描くの好きならプロになって淘汰されてきなよ、毎週週刊マンガ買って待ってるから」って言ったら怒られますよね。

(3)同人の機能とは、いうなれば「アマチュアリズム」=「受け手だった自分が創作の一端に触れることで、自分の〈好き〉をもっと深く知ること。そこに報酬は発生しない」ということである、と、私は解釈しています。

(3.5)はじまりは、ノートの隅っこにまんがのキャラの落書きを描くようなことだったと思うんですね。最初はそれを売る気なんてなくて、「なんでおれはこれが好きなんだろう?」という問いかけに過ぎなかった。

(4)一般的な同人作品をつかまえて「クオリティ」「淘汰」とは、あんまり言わないと思うんですけども、なんか、同人ボードゲームに対しては一足飛びに「クオリティ」言うのが普通になってるのかなー、という印象。

(4.5)ずっと前、ひとに「なんかゲーム作ってみるようなサークルとかできないかなー」って話をしたことがあるのですが、相手が「それは、余程きちっとやらないと、アイデアを盗まれて抜け駆けされるよ」って言われて「はぁ…」ってなりました。

(4.6)そのときのイラっとした感じを言語化すると、「そんな話はしてねぇよ。お前全国の高校や大学の漫研回って〈プロにもなる気ないのになんでやってんの? アイデアあるなら一人でやったがよくね? w〉とか言って行く先々で袋だたきにされてこいよ」みたいな感じです。

(5)なんで、創作しているわけでもない私が、同人=好きの表明=アマチュアリズムを重視するかというと、わたしがボドゲと呼ぶものが、このアマチュアリズムによって、大きく支えられていると思うからです。

(6)「ゲームを作ってみる」だけでなく、「ルールを改変して遊ぶ」「ルールを訳す」「事前にルールを読む」「地雷かも知れないがためしに買う」「ゲーム会を主催してみる」みたいなことを、わたしはやったりするわけですけど、これは「面白いゲームで楽しい時間を過ごしたい」っていう、消費者的な動機からは、直線的にはでてきてないと思うんですね。

(7)「評価の定まったものだけを遊ぶ」というのは消費行動として正解ですし、そういう人が多数でしょうけど、そういう人ばっかりになったら世界はちょっと違う感じになるだろうなー、とは思います。

(8)作り手と消費者に完全に分化して、アマチュアリズムが失われてしまったら、極端な話、傑作凡作の評価は誰がするんだろう、誰がルールを読んでインストするんだろう、誰がわざわざBGGを覗いたりするんだろう……などと、思ったりします。

(9)そういう意味で同人というのは「おもしろいゲームを発掘する場」にとどまらない、ファンひとりひとりのアマチュアリズムを体現する場だと思うのです。(コミケに出展しない買うだけの人も、会場行けば「一般参加」って言われるゆえん)

(10)同人のゲームを遊んでニヤニヤしたり、「これはゲームじゃないよ」と一席ぶちはじめたり、必死でルールの抜け穴を探そうとしたりする営み(そういうことをしようとする精神)は、単に時間と場所を決めて楽しく遊ぶだけでは得られない豊かさを、ボードゲームに与えていると思うのです。