メモ

  • 個人の読みの歴史が参考にならないとは言ってない。<私>がそれをたどり経験したいという意志を持っていれば、たいへん参考になるものだと思う。
  • それから趣味を持ってる人が全員うまくなるべきとは言ってない。ライトユーザはライトユーザのままで別にいいと思う。
  • ぼくが知りたかったのは、ヘビーユーザは、ライトユーザがライトユーザでありつづけることに対して、「人それぞれだから」と、全くの無関心で居られるのか、という、ヘビーユーザ側の態度のこと。
  • ぼくが、ヘビーユーザだとする。たとえば自分の好きな作家の本が、たまたま何かのはずみでライトユーザの手にするところになったとき、「読んだけどわからなかった」とその本を読み捨てて去っていく人について、ぼくは、本当に、「人それぞれ」ですますことができるのか。無関心でいられないのではないか。
  • 無関心でいられなかったら、そのとき、何か言おうと思うのではないか。それが「説得」めいて嫌だというなら、その人に「どのへんがわからなかった」かぐらいは、聞いてみたいと、思うのではないか。さらに実際に話をするのが嫌なら、自分は面白いと思ったけどどうして人はつまらないと思ったのだろうと、考えを整理して、自分のこやしにしようと思うのではないか。
  • 読みの技術を競うことはよいことではないと思うけど、お互いの感想を比較することの中に、そういう優劣の意識が全くないと言えば嘘になるかも。(でもそれくらいみんなやってるし、ある意味そういうことは言わない約束だと思うんだけど。)
  • それよりも、「まー文学というのは人それぞれで魂で読むものですから、私はこういう道筋をたどって来ましたけどあなたはご自分の道を探してください、今あなたが読んでつまらないと言った本は、私は面白いと思いましたけど、それも人それぞれなので何も言いません」とかいう態度で対話しないことのほうが、不誠実じゃないのか。
  • いや、本当に「文学」というのは「魂で読む」もので、個人のなまの読書経からしか語れない要素が多いのかも知れない。でもそれは、他のどんなものだって多かれ少なかれそうなのだし、どうして「文学」がことのほかそのような「魂で読む」ような言われかたをするのかよくわからない。
  • 感想や自分の読みを話すことが、お互いの読みの優劣を比べるようだ、という嫌さよりも、黙って本を手渡されて「あなたに魂で感じてほしい」と言われて、それを感じることができなかったときのほうが、もっと嫌かも。

ほとんどいいがかりでしょうか…。まぁこれを認めてもらおうとかそういうことではないし、ただ思ってることを書いただけですので、これに基づいて何をどうするというわけでもないですが。強いて言えば行動原理。