書店を鍛える

はてなグループの中にひっそりと書かれた記述なので直接言及は避けるが、ある人があるところで「最近書店を鍛えていない」ということを書いていて、これがたいへん面白かった。書店というのは書物と私の界面を意味するものであり、書店「を」鍛えるということは、同時にその面の此方側の私を鍛えることでもあるからだ。そういうふうに、解釈した。

アマゾンに本を薦められるということ、アマゾンに決め打ちで本を買いに行くということは、面を作る作業の前に既に本に向かう私というものがいるということであり、これは確かに実感を伴わないのである。書物によって作り替えられ、表面の形を変えていく私。それなしでは書物はただの情報でしかなく、私という固有の反応をする機械へのただの入力であり「暇つぶし」としか呼べない。

…いやおそらく私は、「暇つぶし」と開き直るだけの勇気がないのだな。