ライトノベルを読んでいたら

「そんなゴミみたいなものを読むなんて君はなんて無意味なことをしてるんだい?」

と、脳内の勝ち組志向のおれが言うのでそれへの答えを考えてみた。

確かに今おれが読んでいるこれは、人生の真理からはほど遠いし、芸術的な価値もほとんどない。まぁ、それはおいとこう。それどころか、エンターテイメントとしても不十分だとも、思う。

ラノベの文章は読者のラノベ常識に頼りすぎていて、それに乗れないと適切に情景を想像することすら難しい。

つまりどこかで読んだ設定・どこかで読んだストーリーに近づくほど受容しやすくなるが、どこかで読んだものならそもそも読む必要がなくなる。

いや…だからそれは問題ではないと言いたいのだ。

どこかで読んだような話を1時間で読み流すようなことを繰り返すと、「あそこの展開が弱いのではないか」「ここは説明が足りない」「折角こういう伏線が使えるのに勿体ない」といった不満が生まれるようになる。ほぼそれだけと言ってよい。

つまり、読んだものと、自分の中にある「理想のストーリー」との差分を確認するために読んでいる。

おれの理想とはここが違う、と言いながら、いくつものボール球にバットを振り続けることで、ストライクゾーンがはっきりと見えてくる、ということなのだとおもう。いつか、これだ! と、自分の中のそれと読んでいるストーリーが共振する瞬間を期待して、バットを振る。自分のフォームを確認できるから、空振りにも意味がある。

読み始めの一球目で、唯一無二のおもしろストーリーを引き当ててしまうこともあるかも知れないが、しかしそれは、ストライクゾーンがわからないままバットに当たってしまうという偶然のようなものなので、趣味としては面白くない。

接続

パーフェクトなストーリーは読者の脳内にしかない、という話なので、もちろんこれはおれの「かまいたち2」擁護につながっている。

追記

  • ラノベに限った話ではなく、「ある数を体験して、たいがいのことでは認識が変わらなくなった後」の趣味の続け方に共通しているような気がする
  • 「理想のアレ」が内部化されたときに趣味の第二ステージが始まるということか
  • ラノベの場合そこから始まっているというか…
  • 選択肢として、何本か自分のスイングでヒットが打てたら「だいたいわかった」と言ってやめちゃう(第一ステージで終わり)、というのもあって、どっちがいい悪いということはない。
  • あとあの、「不満があるなら自分で書けばいいのに」という意味とは別に(別にです)、楽しみのひとつとしてそういう外れ球のひとつを自分で創作するということはある。

追記2

ライトノベルに限定して何か言っている印象を与えそうなので(ゴミとか扇情的な書き出しで申し訳ございません)、補足がてら結論を書いておきます。

結論1
あるジャンルのエンターテイメントで、「微妙に違うものを大量に摂取して自分の好みを明確にする」という楽しみ方がある。あるジャンルを消費するのを長くやっていると、自分の認識を変えるようなすごい作品に出会う楽しみは減っていく一方で、自分の好みを明確にする楽しみは増えていく。「ライトノベルなんて本質は同じ、どれも大差ない」という貶し方は、後者の楽しみを否定してしまう。
結論2
あるジャンルのエンターテイメントを「多様で楽しい」と感じるか「どれも大差ない」と感じるかは、個人のそれまでの経験による相対的なもの。たとえば「ミステリは多様だけれどもライトノベルはどれも大差ない」という貶し方には一定の留保が伴う。今は私はこれを多様で楽しいと感じているが、将来そうでなくなっているかもしれない。