プレイングのまずさをあれこれ言われると凹む、ことに関して

明示的に言及は避けますが、まぁそのへん。

「まずいプレイに『何やってんだ』ときつい言葉で言う」というのは「初見のゲームを前にして『わかりません…』とふにゃふにゃする」と同レベルの芸風だと考えることにしてます。そのあたりは、キャラと思って軽くスルーしていかないと、腹の立つことも多くなるでしょう。

とはいえ、私も、べつにいつもいつも、鉄の心になって「あーこの人そういうキャラなんだ」と思っているわけではなく、時と場合に応じて感じ方を使い分けてます。

使い分け、というか、感じ方の切り替え

このことはシチュエーションが変わればはっきりします。

たとえば、通常の「ゲーム会」ではない、「ひとの家に集まってまったり遊ぶ」趣旨の集まりでは、ふだんは「キャラだもんな」とスルーしている行動に対して、ひっかかりを感じる場合もあるでしょう。

一応今、友達という括りで呼ばれてるのに、それはちょっと違うんじゃないかなぁ…と、思ったりするわけです。

「ゲーム会」という名前で遊んでいるときは、そういう感情的な部分は多めに切り離してやってます。別に何か我慢してるわけではなく、「ゲーム会」の最終目的は、友達を作って仲良くすることではないのだから、自然とそうなります*1

まとめ

「ゲーム仲間」かもしれないけど「友達」…じゃないよなぁ、という距離の関係というのはある。それはそれでいいし、向こうだってそういうふうに思ってるかも知れない。

「ゲーム仲間」として見れば、個性的な部分はキャラとして見えるようになるので、そこに対して感情的な反発を抱くことは少ない。

「ゲーム仲間」として見ても、なお、その人のキャラのスタイルがずばぬけて個性的な場合、結果としてその人はプレイ仲間を減らしていくことになるので、腹の中で「あぁこの人、ゲーマーなのにメタゲームが下手ね」と思っておけば、気が楽かも知れない。

もう一歩踏み込んで言うと

たいていの人には「あぁこの人こういうキャラなのね」と、他人さまにスルーしていただいている部分があるはずです。自分にそれがあるかもしれないと想像できれば、他人のエキセントリックなキャラにも、多少は寛容になれます。

*1:これには語弊があるけど、このへんを敢えて誤読しちゃうひとは「ボードゲームとはコミュニケーションです」という宗教の影響を受けてるんじゃないかと思うから、ほっとくことにする