ぼんやり会 補遺

「素晴らしき哉、人生」についてのグルメヒヒョー

僕はあれは、人生賛歌とかクリスマスの素敵なお話、というよさだけでなく、もっと直接的に、映画を観ている観客に訴える力があると思うんですよ。

というのはね、冒頭あの、星の対話のシーンがあるじゃない。あれがすごく大事だと思うんですよ。

もし、あの星の対話がまるまるカットされた、別の映画というのを想像してみるわけです。そうするとどんな感じか。男の半生が1時間半くらいかけてダラダラ語られた後、唐突に中年のおっさんが現れて「私は天使なんだ」とか頭のおかしなことを言うわけですね。まぁ、それだけで成り立たなくはないと思うんですよ。星の対話は、別にないならないで、構わない。なら、あの対話をわざわざ入れることには何の意味があったのかということになる。

対話する星の視点では、人間の時間に、好きなところから好きなふうにアクセスできて、男の幼少期から出来事を拾って見ていく体を取ります。これはまぁ神の視点と言ってもいいですね。んで大事なのは、今からこの神の視点で男の半生を見ていくよ、と、映画の中ではっきり宣言している、ということですね。神の視点を観客も共有していますよ、と宣言される。

星の対話がなくても、この映画はそんなおかしくない。でも、あの対話が入ることで、最初に、そこに時間や場所を超越した視点があることを、意識させられているんですね。

で、その視点というのは特に珍しいものじゃないですね。「あれ、なんだ、この神の視点っていうのは、普段おれらが映画観てるときの視点そのまんまじゃん」ってことに気付くわけです。

映画の最後の40分くらいで、主人公は「もしも」で分岐する世界を見せられて、また元の世界に帰ってきて、ハッピーエンドになりますよね。自分が観た「もしも」の世界の衝撃で、自殺を思いとどまろうと思った、と。

この「もしも」という分岐も、映画の中の天使や神ができることである、っていうのと同時に、映画だから可能なこと、なわけですよね。実人生は1回きりだけど、映画は時間を超えたり「もしも」を語ることが、簡単にできる。

ということは、この映画を観ることで呼び起こされる感動、というのは、もちろん「クリスマスにおきたちょっとした奇跡」のほのぼのとした感動でもあるんだけども、映画一般、というかフィクション一般が持っているなぐさめに触れた、という感動でもあるんじゃないかなー、とかいうことを、思ったんですね。

この映画の主人公は「もしも」を見ることによって救われましたけど、あなたにとっても、映画というのは、そんな「もしも」を沢山用意してくれるものじゃないんでしょうか? ということを言ってるように、思ったんです。

もちろんこんな風には喋ってません……。