思い出しメモ

  • 「トロン・レガシー」と「トロン」の違いは絶対忘れないシーンがあるかどうかで、トロンをこの間初めてDVDで観たおれでも、電子の峡谷の道をライトサイクルが妙なスピード感で滑るように走るシーンのサイバー感は忘れようがない。同時代で観ていたら、自分にとって世界はずいぶん違っていたかも知れない。
  • ノルウェイの森」(映画)で、ワタナベ君が「愛してる」と言ったり、その彼に緑が「あなた今どこにいるの」と尋ねるシーンが意味不明だ(都合よすぎ?)という感想を読んだり聴いたりすることがあったのだけど、そもそもワタナベ君は平均的な意味で直子の事を愛していたわけではないだろうし「愛してる」という言葉の意味がかれの中で変わってしまうことを描いた話なんじゃないのこれは、と思うのでメモ。
    • 直子は意味不明でわけわからんちん。幼なじみを失った直子に怖々接しているうちに、なんか大丈夫じゃんって思えてきて身体を重ねることになって大丈夫なのかと思ったらその傷口はまだぱっくり開いたままで、京都の山の中に籠もって養生するのかと思ったら、年上の女性と「わたしたちちょっとおかしいのよねーキャハハ」なんてやってる。リアルワールドで知り合った緑とかいう女も出鱈目で彼女なりに暗い部分を持っている。どいつもこいつも俺にどうしろっていうんだよいい加減にしろよ馬鹿。私ならそう言うし、ワタナベ君も彼なりの言い方でそう言っている。
    • とはいえ、原作の感じはもう覚えていないのだけど。映画を観て思いだしたのは『風の歌を聴け』で、主人公が毎週決まった日に父親の靴を磨くという習慣を絶対に守っているというエピソードで、ワタナベ君にとって直子というのはそういう存在ではなかったのかと思うのだ。何も見返りを期待はしないが、その面倒を見ることで私は世界がよくなっていると信じることができるというそんな何か。毎週靴を磨くことを愛と呼ぶかね。見方によってはそうかも知れないし、ワタナベ君はそれを愛と呼ぶことを選んだのではなかったか。
    • 最後の「愛してる」は、そこからさらに彼の言葉の意味が変わった(だから、口に出して言ってみる)ということなのだと理解した。
    • ワタナベ君はなぜヤリチンなのか、という問題を、この観点から見直すと、ワタナベ君は自分の猟色を「愛という言葉の意味を変えさせられてしまった人間の特権」として行使していたのではないか、という気がする。(だから、傍には特権的な人物として永沢さんがいる)