麻耶雄嵩を妄想で弁護する

『夏と冬の奏鳴曲』(ISBN:4062638916)を読んでますが、前作とはうってかわって「新本格」らしい文体と道具立て。しかしネットの評価をぱらぱら見るに、きっとどうしようもない(そして、「言われてみれば」つじつまが合う)オチにちがいないです。
前作『翼ある闇』(ISBN:4062632977)によって作者が狙ったものを、僕はこのように解釈しました。

  • 本格っぽいガジェットを溢れさせて読者をうんざりさせる
  • 舞台設定にふさわしい馬鹿推理を展開する
  • そのガジェットの配置にもやはり意味があった…馬鹿推理であることによって読者をのせること自体が表層であり、それなりの伏線は敷いていた
  • しかし読者は納得しない。「こんなんわかるか!」
  • 「本格」として納得しない。でもある部分で納得した。これがポイントであり、あなたが納得した部分までを「本格」ってことにしていいんじゃないですか? あなたの中で認識の枠組みが変わることが読書体験なんじゃないですか? というのがこの作品の呼びかけである。

しかしながらどうもそれが広く通じたかどうかは疑わしい…「人間が描けていない」が「ミステリマニアにはおすすめ」という、評価に回収されてしまったのかもしれません。

ちなみに、『翼ある闇』の殺人には、ある「見立て」が存在しますが、これをもって「ミステリマニアにおすすめ」と言うのはちょっと違うのではないかと思います。これは「作中人物がミステリというジャンルを意識している」という、「本格」の要件の一つに過ぎません(つまり、ガジェットの一つとして、笑うところだと思います)。確かにそのような前提を受け入れていない場合、この見立ては唐突かも知れませんが…

で、本作(今2/3くらいまで読み進みました)ですが、

「人間が描けていない」ように書いたものを「人間が描けていない」と非難されたので、わかったわい、最低限、人間と舞台は「新本格」っぽく書きゃええんやろ、それであのオチだったらわかって貰えるか、という意気込みで書き始めたのではないでしょうか。

(いや、まだ最後まで読んでないので、どういうオチかは知らないけど)

もしそうなら、この人はそうとう優れた作家だと思います。手腕が、ではなくて、二回同じことを続けてやる、という図太さが。この人にとって、何を書くか、どう書くか、などといったことは、技術的な問題に過ぎないんだと思います。