最近の再生 (哀しき獣)

哀しき獣 (映画)

一大エンターテイメント。「韓国映画もこんなに……」という枕は一切不要。四部構成の第二部、第三部のサービス度合いがハンパない。

誰が殺人を依頼したのか、について話がわかりづらいという評価多し。私もよく把握できてない。感想を見て回ると「男女二人連れに依頼されてミョン社長を紹介した……」というくだりがあったらしいが、ちゃんと見てなかったな。

最近の再生 (永遠の僕たち)

永遠の僕たち (映画)

原題、restless。

難病映画。泣かせるようなことはほとんどなし。肉親や恋人との別れを、戸惑いベースで描く。

交通事故で死んでしまった親の墓石を「なぜ死んだ!」とハンマーでぶっこわすシーンがあって、どんだけ子供なんだ……と鼻白むのだが、じゃぁ他に何をする? と言われると、何も思い付かない。八つ当たりせずに何か見つけろよ、と言うのは簡単だが、それは話を置き換えてるだけだし。

死を特別な別れとしてではなく、生の一部としてうけいれようとするからこそ、生まれる感情もあるだろう。「なぜ死んだ!」は、そういう怒りでもあるのだろう。「なぜ墓石の下なんかにいる!」

ポスターと「永遠の僕たち」というタイトルは、BL客を呼び込むミスリードかも知れないと思ったりもした。

最近の再生(ヒミズ、ウインターズ・ボーン)

ヒミズ (映画)

検索するとやっぱ駄作っていう人も多いのだけど、冒頭の「寝て起きたら震災報道のテレビつけっぱなし(それが何になるわけでもないのに)」の感覚を「あー、これ俺だわ」って思えるかどうかで、評価が分かれるんじゃないだろうか。映画の展開やキャラクターは……なんというか、変な人がワーワーやってるだけ、という感じもした。でも、そんなことはどうだっていいな、という感想。

「シネマハスラー」の感想なども聞く。「被災地の扱いが…なめんな…」云々…。いや、「俺だわ」と思った人にとって、あれは東北じゃなく、心の中の瓦礫の山なのです。むしろこれは「被災しなかった人」のための映画、というか。

瓦礫の中に、自分も何か置き忘れてるようだが、何もできない。3月はテレビをつけっぱなしにしたり、twitterにへばりついたりしてみたけれど、いろんなことをいろんな人が言うだけで、何にもわからなかった。それより自分のことが大変。世間は出鱈目なやつらばかりだし、まともだと思ってた人達もバラバラになってしまった。

映画の中に、バスの優先席に座っていたキチガイが、「譲りなさい」とたしなめた女性を刺す、というシーンがある。そして、「優先であって義務ではないだろ!」と言う。これはフィクションだろうか。でも、私が知っているインターネットでは、「女性専用車両は女性優先ではあるかもしれないが義務ではない」という屁理屈をめぐって延々と、いい年したおっさんおばさんたちが「議論」してたりするよ。それと何が違うだろう。頭が痛くなるのは、どんなキチガイでも、言っていることに「一理なくはない」ということだ。

いろんな人がいろんなことを言うが、それらを憎むこともできない、どうしていいかわからない…と感じていた人、それは住田であるし、住田が目撃する多くのキチガイでもあるし、私でもある。というわけで、ラストではやはり泣いてしまった。

軽薄な奴め、とさげすんでいた、冒頭の教師のベタベタな言葉が、ベタだからこそそれを選ばなければならない、と、ブーメランになって、戻ってくるのだった。

駄作と言えば駄作。忘れ得ぬ駄作っていうか。

ウィンターズ・ボーン (映画)

この映画に感じる「善さ」はなんだろう、と思ったが、これはたぶん、氷(あるいは、湖の冷水)に閉じ込められてしまった「古き良きアメリカ」みたいなものじゃないのかな。

リスと犬と鹿と子供とが、どれが死んでも生きても、愛玩されても不思議ではない、同列の生き物に見える世界。「レッド・デッド・リデンプション」の冒頭、畑を荒らすウサギを銃で撃ち殺せ、といわれたときの感覚にも似ている。あぁ、ここでは生命の感覚ってこうなんだ、という。

ツイン・ピークスの街を貧乏と泥からこねなおしたらこんな感じかな、なんか秘密のクラブにシェリル・リーみたいな人がいるな……と思って観ていたら、シェリル・リー本人だった。

チグリス・ユーフラテス (iPad)

ルールもあやふやだったので買ってチュートリアルをやった。

これはたいしたゲームだな。「タイルを置いたり取り除いたりして、それが得点や力になる」ことについて、執拗に考え抜かれてる。同じタイルを固めて配置すると得点源になるが、それが脆弱性でもあるところとか、順番を考えれば上手に国力を分断して戦いを進められるところとか、ルールには書いてないちょっとしたノウハウがたくさん。そのノウハウをパラメータとして組み合わせて考えることで、強くなれる。

1月のまとめ

映画

1月は4本。余裕もないし、50本くらい観られればいいかなと思ってる(もっと極端に減るかも)。感想書いてないものだけ、ひとこと。

観たかったものとしては、「家族の庭」。

同人活動の成果が受け入れられる如何は製品クオリティの問題じゃなくて受け手の問題だよ(ということにしたい)

……という話を、いつだかtwitterで書こうとしてたときのメモが見つかったので、ちょい書き足して貼っておきます。


(1)たぶん「同人ゲーはZ-MANなんかからメジャーで出ればいいじゃない」っていうのとは、私は立場が逆で、同人作品は同人作品として楽しめるような雰囲気であってほしいんですよね。クオリティはわきにおいて。

(2)コミケの会場で同人誌出してる人に「君たちそんな描くの好きならプロになって淘汰されてきなよ、毎週週刊マンガ買って待ってるから」って言ったら怒られますよね。

(3)同人の機能とは、いうなれば「アマチュアリズム」=「受け手だった自分が創作の一端に触れることで、自分の〈好き〉をもっと深く知ること。そこに報酬は発生しない」ということである、と、私は解釈しています。

(3.5)はじまりは、ノートの隅っこにまんがのキャラの落書きを描くようなことだったと思うんですね。最初はそれを売る気なんてなくて、「なんでおれはこれが好きなんだろう?」という問いかけに過ぎなかった。

(4)一般的な同人作品をつかまえて「クオリティ」「淘汰」とは、あんまり言わないと思うんですけども、なんか、同人ボードゲームに対しては一足飛びに「クオリティ」言うのが普通になってるのかなー、という印象。

(4.5)ずっと前、ひとに「なんかゲーム作ってみるようなサークルとかできないかなー」って話をしたことがあるのですが、相手が「それは、余程きちっとやらないと、アイデアを盗まれて抜け駆けされるよ」って言われて「はぁ…」ってなりました。

(4.6)そのときのイラっとした感じを言語化すると、「そんな話はしてねぇよ。お前全国の高校や大学の漫研回って〈プロにもなる気ないのになんでやってんの? アイデアあるなら一人でやったがよくね? w〉とか言って行く先々で袋だたきにされてこいよ」みたいな感じです。

(5)なんで、創作しているわけでもない私が、同人=好きの表明=アマチュアリズムを重視するかというと、わたしがボドゲと呼ぶものが、このアマチュアリズムによって、大きく支えられていると思うからです。

(6)「ゲームを作ってみる」だけでなく、「ルールを改変して遊ぶ」「ルールを訳す」「事前にルールを読む」「地雷かも知れないがためしに買う」「ゲーム会を主催してみる」みたいなことを、わたしはやったりするわけですけど、これは「面白いゲームで楽しい時間を過ごしたい」っていう、消費者的な動機からは、直線的にはでてきてないと思うんですね。

(7)「評価の定まったものだけを遊ぶ」というのは消費行動として正解ですし、そういう人が多数でしょうけど、そういう人ばっかりになったら世界はちょっと違う感じになるだろうなー、とは思います。

(8)作り手と消費者に完全に分化して、アマチュアリズムが失われてしまったら、極端な話、傑作凡作の評価は誰がするんだろう、誰がルールを読んでインストするんだろう、誰がわざわざBGGを覗いたりするんだろう……などと、思ったりします。

(9)そういう意味で同人というのは「おもしろいゲームを発掘する場」にとどまらない、ファンひとりひとりのアマチュアリズムを体現する場だと思うのです。(コミケに出展しない買うだけの人も、会場行けば「一般参加」って言われるゆえん)

(10)同人のゲームを遊んでニヤニヤしたり、「これはゲームじゃないよ」と一席ぶちはじめたり、必死でルールの抜け穴を探そうとしたりする営み(そういうことをしようとする精神)は、単に時間と場所を決めて楽しく遊ぶだけでは得られない豊かさを、ボードゲームに与えていると思うのです。

最近の再生 (叫、ほか)

バーン・アフター・リーディング(DVD)

叫(DVD)

  • 面白かった! 途中でわけわからんちんになった「カリスマ」「ドッペルゲンガー」より楽しんで観ていた。
  • 「こういうのが黒沢清だから!」っていう自己引用みたいなので楽しんでいるふしもなくはない。医局で医者が筋弛緩剤をくすねるシーン、後ろでいろんな人が歩いているのだが、いつその一人がこっちに入ってきて鈍器で頭を殴打するかと、気が気では無い。
  • 死者(幽霊)の目線で見ている映像がぞわぞわ来る。死体置き場のカーテンとか、団地の窓の外から撮ってるところとか。
  • 幽霊をそんなにはっきり撮ってどうするんだ……と思ったが、葉月里緒奈の顔はたしかにおかしな説得力がある。美人なのだけど、まじまじと見ていると、顔認識がゲシュタルト崩壊を引き起こして、「うわっ、やっぱり人間じゃない……」と思える。他の女優だってこんなふうに撮れば異常に見えるのかも知れないが……。
    • 幽霊の絵そのものでいえば「潮の声」を超える怖さ。
  • 忘れてしまったぬかるみからの声というのは、今思い出すと「うわーっ!」となってしまいそうな自分の過去の言動だけでないのかも。未来から見た今は過去なのだし。

吸血鬼ゴケミドロ (DVD)

  • あちこちほじくり返して見るには、ちょっと時間不足だった。

ちはやふる(漫画) 5巻まで

  • ネームが安定していてすばらしい。安心して感情を委ねられる。
  • これ読んで「競技かるたもアツいことがわかった!」というのは、まぁ、そういうふうに作ってますからね、というしか、なので、そのへんには特に興味なし。
  • 感心したのは、ちゃんと彼らの視野の限界みたいなものを描いているところ。
    • 「うちの高校の将棋部や囲碁部」として、他の文化部のことがさらっと触れられて、そういうのは我々がやってるガチの勝負事とはちがうお花畑なんだ、みたいな評価がされるんだけど、たぶん実際には、そんなことはないわけだね。
    • 仮に囲碁部将棋部がお花畑だとしても、それなりの文化部的な悩みや葛藤はあるだろうし、その葛藤が、技量のある別の漫画家によって描かれる余地はある。
    • しかしともかくも「ちはやふる」という世界の視野の中では、主人公たちは「あれはお遊び、かるたはガチ」と評価して、自分のことを一生懸命やることに決めたわけだ。それは極端に言えば、無理解な「遮断」ではあるけど、「遮断」したことをちゃんと描く清々しさはあるなと思った。

最近の再生(幸せパズル、MAD探偵)

「幸せパズル」 (映画、Denkikanにて)

50歳を迎えた主婦が、突然ジグソーパズルの才能に開眼! パズルを通した新しい出会い! そしてジグソーパズル大会へ出場。優勝者はドイツへの切符が渡されます!……という。

優勝者がドイツ、というところで、ひょっとして……と思ったが、これはいいボードゲーマー映画。

ただし、「大会に出場しない人の言い分」の映画として。

主人公は、さいしょはこの楽しい遊びを一緒に遊べる仲間を探してただけなはずなのに、大会だかなんだか言われてのせられ、やりはじめたら「あなたお住まいはどちら? オホホ」なんて住んでいる世界の違いを意識させられることになる。なにそれ、しんどい……。生活があるのに、勝ち残ったところで世界大会とかホイホイ行くわけないだろ! 誰でも楽しめる、の「誰でも」って、結局、生活に余裕のある人に限られるんじゃないのよ?

……そこらへんの気分が、よく表現されている。

「そんなの当たり前だろう、生活は大事だからゲームより家のことを優先すべきでしょう」だって? わかってねぇな。

この映画の主人公は、最初、自分の生活にうるおいが欲しくて、なんとなく、「きれいな絵ができていくのが楽しいから」、パズルをはじめただけなんだよ。そこに生活の余裕なんて関係なかった。

それを「あなたは才能がある」と祭り上げて、パズルの世界に引き込んで、本人にそんな余裕がないのを見て取ると「あぁ、あなたはやっぱりここにいるべきじゃないかもね」って突き放しちゃうのは、「パズル大会! 優勝者はドイツへ!」なーんて盛り上がってる人たちなわけ。

もし、主人公が、「大会出場! 次はドイツ! 燃えるぜ!」とかじゃない、別の遊び方、別の「パズルのある生活」に出会っていたら、悲しい思いをしなくて済んだかもしれない。

もちろん、映画の中で彼らパズルマニアは「ここにくるな」なんて言ってはいないし、善男善女が自分の好きなことをやって楽しんでいるだけで、なんの罪もないんだけど……。

でも、この映画の主人公から見た挫折感、というのは、たしかにあるわけです。

ひとつの遊び方が、結果的に他の何かを無視しているかもしれない、という自覚はあるか? だとしたら他に何か、オルタナティブな遊び方・楽しみ方を考えられんものか? というか、そういうことは常に考えていくものでは?……と、去年のわたしはよく思っていたので、そこんところにこの映画がうまくハマった。

「わぁ、Ravensburger*1のパズルがいっぱいですねー」とか、ゆるーく観たいひとは、まぁそれはそれで。

「パズル用に特別にテーブルをあつらえたんですよ」という金持ちに主人公が軽くひいてる(趣味人の業の深さに対してではなく、そんなことをできるのが、生活に余裕のある一部の人だけなことに無自覚なさまにひいてる)、ということは覚えておいたほうがいいかも、だ。

「MAD探偵 7人の容疑者」 (DVD)

なんという講談社ミステリ、と思って見始めたが、作り手にそういう意識はなさそう(インタビューで、「こんな変わった探偵がいたら面白いんじゃないか?」とか素直な受け答えをしている)。かなり天然。

しかしヘンをヘンと強調しすぎない、映画らしい魅力もある。容疑者には7人の人格が宿っているが、そのことをかくだん特別なこととして描こうとしてないのがいい(そのことによるストーリーのヒキが弱い、とも言うけど……)。

探偵と(いないはずの)奥さん、部下の刑事とその恋人、4人で食事に行ってバイクに乗るシーンがよかった。

『殺す』 (J.G.バラード、創元)

あぁそうだ、おれはバラードが好きだったんだ、ということを思い出した。高校生の妄想をそのまま小説にして描いちゃった感。

*1:ドイツの玩具メーカーボードゲームのメーカーとしても有名