正しさの種別(教えてはてなダイアリーに関して)

(また質問ではありません。辿ってきたかたごめんなさい。)

http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20040222#1077462080 の補足。

ものを教えたり教わったりするときの「正しさ」には、「知識の正しさ」と「知識を得る手続きの正しさ」のふたつが、あるのではないか。そして、ぼくが興味があるのはおもに、「知識を得る手続きの正しさ」なのだとおもう。*1

「知識の正しさ」について。初心者の人が最初から、正しい知識を得ることについては、あまり期待しないほうがよい。そうであるに越したことはないけれど、往々にしてこの期待は「なんで正しいものを求めないんだ?」という詰問に変わりえる。しかしそれは、「知識の正しさ」そのものとはあまり関係ない。

「知識の正しさ」-「正しいものはよいもの」-「みんなそれを追求してしかるべき」という展開は、個人的には、胡散臭さを感じるし、だいたい、正しさを追求したいかどうか、というのは、その正しさに対する思い入れの違いていどでしかないとは思う。しかし、そういうことを言ってしまうと、よくない相対論になってしまうので、この点は保留。保留して「手続きの正しさ」という外堀を埋めてみることにする。

「知識を得る手続きの正しさ」について。手続きというよりモデルの正しさといったほうがよいか。

知識を得る=「勉強」するときのことをイメージしてみる。

一つの<正しい知識>があって、そこに向かって個人が様々なやり方で勉強している。正しい知識にはだいたい「門番」「司祭」のような役割の人がいて、初心者に正しい知識を投げ与えている。

…というような「初心者」「上級者」に二極化されたモデルを、ぼくは想像しにくい

最終的な<正しい知識>というものがあるとしても、教えたり教わったりしている個別の現場では、正しさというのは限定的であるはずだ。誰でも、自分の持っている限定的な正しさを、上から下に棚卸ししているにすぎない。その総体で、「正しさ」の嵩が上がり、全体のレベルが上がっていくのだと思う。

つまり、どのような知識レベルの人でも、自分のレベルに応じて教えたり教えられたりしているのであり、それが保証されていることが、大事なのだと思う。自分の言っている「手続きの正しさ」というのは、だいたいこういう意味。

なぜ、「手続きの正しさ」を重視したいかというと、「知識の正しさ」という見方だけでは、喧嘩別れに終わってしまうことがままあるから。

たとえば、今回の「教えて」の件についていえば、多くの質問は、「(知識が)正しい」HTML/CSSの知識が要求されるものなので、生半可に応急処置的な教え方をする人に対して、「validなHTML書けないやつはすっこんでろ」という言い方があるだろう。確かに「知識の正しさ」から見れば、実際に嘘の知識が広まることは害なのだから、これは正しい主張なのかも知れない。しかしそれは「知識の正しさ」に関する話であって、「手続きの正しさ」についていえば、「すっこんでろ」という言い方は、ひどい。

間違ったことを教えるのはよくない。しかし、教える教わるということは、常に誰でもできることであるはずだ(と思う)。であるなら、「すっこんでろ」ではなく、教えたい人はどういうことを知っていれば教えることができるのか、段差を埋めたほうがいいのではないのか。

難しいとは思うけど…。ちなみにCSSについては http://d.hatena.ne.jp/adramine/20040223#p5 で、上に書いたような「埋める」作業をやられてます。

同じく、「HTML原理主義者ウゼェ」という言い方も、確かに主張として、「全員が正論の知識を身につける必要はあるのか?」という点を認められなくはないと思うのだけど、「手続きの正しさ」を拒否するような「ウゼェ」という言い方はひどい。

「教えて?D」を立てたid:sugioさんはさすがにこの点をよく判ってるなぁと思った。

http://d.hatena.ne.jp/yukodokidoki/20040221#c

「偉い人」には常に「もっと偉い人」がいるのであり、その相対性(というか相似性というか…)みたいなものが「手続きの正しさ」の基礎になるんではないかと思った。

*1:だからってCSSの勉強しないってわけじゃ…ない…です…たぶん…

コメントに応答

長くなったのでこっちに書きます

うーん、特に反論することはない…その通りだと思います。以下補足。

該当キーワードに、教えようとしてる人への知識へのポインタをきちんと示す、とか。やることといったら、最初はそれくらいでもいいのではないでしょうか。

じゃぁ後は、なにをグダグダ書いているのかというと、教える教わるということに対する認識のことを、問題にしている。

正典みたいな知識があって、その内容を全部「啓蒙」しようとすると、「初心者」vs「上級者」の二極化→「間違ってる奴」vs「原理主義者」のたたかいになりがちなのではないかと思ってます。

で「教えて偉い人!」というのは、そういうことじゃなくて、自分より「相対的に偉い人」が、その場その場で、ちょこちょこっと、なんか教えてくれる、それでいいじゃんか、という発想だと、ぼくは解釈してます。

偉いという言葉は確かに一人歩きしそうでちょっとアレだけど。(でもみんなもう、ウゴウゴ・ルーガのことなんて忘れちゃったのかしら…)

教えるという行為が、あちこちで、ばらばらに発生する。それでいいのではないか。正しい知識のポインタはもちろん明文化したほうがいい(それは「知識の正しさ」の範疇)し、今回の「教えて?D」は最初その用意が乏しくて慌てた*1わけだけど、それさえ用意すれば案外うまくまわるのではないか。

教えるという行為をローカルなものにする…うまく言えないけど、これが自分の中では大事だと、自分で書いて気付きました。

無私のこころで教えてまわる人は少ないし、「こういう日本語書く奴とはお近づきになりたくない」「この人の日記に何かコメントするのはおそれ多い」みたいな感情は結構ありますよね。

そういう心的な距離はそのままにして、「まぁオレはこの人の日記にはコメントしたくないけど、誰かこの人近辺の偉い人が教えてくれるでしょ」「この人の日記けっこう好きだからがんばってみよう」みたいなことができる、というのが大事だと思います。


あと、今調べたらルーガちゃん(小出由華さん)は今年19歳だそうです…

*1:なんて…勝手に評価してすいません…

書きながらさらに思ったこと

ネタに乏しいこの日記の中で何度も言っているが「性善説」という言葉はオレ内部日本語評議会ではかなりNGワードで、それを使って「あなたは性善説だからねぇ」なんて言ってる人を見ただけで感情のメーターがちょっと怒り方向に動いたりして、それはなぜかというと、一昨日も書いたけどもその「性善説」という概念がほとんど何の実体を含んでおらず、単純に「あなたと私は違うのだ」ということを言うためだけに、もったい付けた言葉をつけて線引きをしようという、そういう卑しさを勝手に感じ取ってしまうからなのである。

類語に「大人」「社会人」「マナー」「ネチケット」など。勿論使い方による。

話をもどして「性善説」だけど、これを下に書いたように「システムの中に人間の心的距離やコミュニケーション欲のようなものを取り入れ、各成員がそのような心的欲求に従うことでシステムをうまくまわすこと」と、勝手に再定義してみよう。

こんど人から「あなた性善説だね」と言われたら、腹の中でいろいろと思わず、そういうふうにほめられているのだと喜ぶようにしようと思った。

オレが今後そのようなお褒めの言葉を賜るかどうかはわからない。

おー

本屋大賞NHKのニュースになってる。

オレは昔「早川文庫の裏表紙の惹起の文句を書く職業」になりたかった(昔からそんなんばっかだ)が、書店員としてポップを書くというのはそれに一番近い仕事なのかな…。